梶原景時の生涯 最後の住まいであった梶原景時館跡(神奈川県寒川町)





梶原景時(かじわら-かげとき)は鎌倉幕府の御家人で、1140年頃に生まれました。
父は梶原景清で、母は横山党・横山孝兼の娘です。
1180年8月、源頼朝が挙兵し、石橋山の戦いとなった際には、反対勢力である平家側の武将として戦っています。
この時、敗れた源頼朝は山の中に隠れたのですが、大庭景親らと探索するなか、梶原景時は土肥の椙山にある「しとどの窟」に隠れている源頼朝を発見します。
しかし、梶原景時は情をもって、この山には誰もいないと大庭景親に報告し、源頼朝の命を救いました。

源頼朝が鎌倉幕府を開くと、この時の事が縁で、梶原景時は重用されるようになります。



梶原景時は土肥実平とともに播磨・備前・美作・備中・備後、5か国の守護を任され、壇ノ浦の戦いでも貢献しますが、源義経とは対立したとされています。
その結果かどうかは明らかにされていませんが、源義経は鎌倉に入る事ができず、結果的に追放されています。

1189年7月の奥州合戦にも、梶原景時と嫡男・梶原景季も参戦し、藤原泰衡を討伐します。

1192年には、和田義盛と交代する形で侍所別当に就任。

1199年に源頼朝が死去したあとも、梶原景時は宿老として2代将軍・源頼家に重用されました。

この頃の梶原景時に与えられていた所領が、寒川の梶原景時屋敷跡の場所と言う事になります。

「梶原景時館址」の石碑がある天満宮の場所は、梶原景時の一宮館の「物見櫓」があった
とされ、昔は一段高かったと伝わります。

梶原景時館址

しかし、文武に優れていた梶原景時も、侍所別当として御家人らを取り締まる立場であったことから、恨みを買い和田義盛ら66名が連判状を大江広元に提出させ、将軍・源頼家に言上します。
そのため、鎌倉追放を言い渡された梶原景時は、京に逃れる為、1200年1月20日に、この相模国一ノ宮(寒川)より一族を率いて出発しました。
その途中、駿河国清見関(静岡市清水区)近くで飯田家義らに発見され、狐崎の戦いとなりますが、一族33名と共に梶原景時や梶原景季も討たれたのです。

その3年後には、将軍・源頼家も北条時政によって将軍職を追放・暗殺され、代わって源実朝が将軍になりますが、北条時政が幕府の実権を握る事になったのでした。


梶原景時館址がある場所は下記の地図ポイント地点です。
付近に駐車場はありませんので、ご注意を。

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