石橋山古戦場(石橋山の戦い)【源頼朝挙兵】参加武将など合戦経緯と訪問方法(駐車場)






石橋山の戦い

鎌倉幕府を開いた事で知られる源頼朝の父である源義朝は、源氏の頭領として平家に挑みますが、1159年平治の乱で敗れて殺害され、勝利した平清盛は、三男であった源頼朝を伊豆に流罪とします。
そして、流刑の地である伊豆にて北条時政の娘・北条政子を妻とした源頼朝は、やがて平家打倒の挙兵を決意し、以仁王の令旨を受けて1180年8月17日に伊豆目代の山木兼隆を討ちます。

その後、源頼朝が従えて、相模を目指した際に参陣した武将は、吾妻鏡などより総合すると、概ね下記の通りです。

北条時政 北条宗時 北条義時 北条時定
安達盛長
工藤茂光(狩野茂光) 工藤親光 田代信綱
宇佐見助茂(宇佐美祐茂)
土肥実平 土肥遠平
土屋宗遠 土屋義清 土屋忠光
岡崎義実 佐奈田義忠(佐奈田与一、岡崎義忠) 大沼三郎
佐々木定綱 佐々木経高 佐々木盛綱 佐々木高綱
天野遠景 天野政景 天野光家
宇佐見正光(大見正光、宇佐美政光) 宇佐見実政(大見実政、宇佐美実正) 大見家秀
大庭景義(大庭景宗の長男?) 豊田景俊(大庭景宗の3男)
仁田忠常(新田忠常)
加藤景員 加藤光員 加藤景廉
堀親家(堀親宗) 堀助政
中村景平 中村盛平
鮫島宗家 鮫島宣親(七郎宣親)
近藤国平(近藤七国平)
平佐古為重
那古谷頼時
澤宗家(沢宗家)
義勝房成尋
中惟重 中惟平(中八惟平)
中原光家(小中太光家)
藤井俊長(鎌田俊長、新藤俊長)
宇野治長 宇野治信(江川治信)

源頼朝らは、相模を目指して進軍開始しますが、僅か300騎程度と言いますので、総兵数にすると約1200名と言ったところでしょうか?
兵力が少なかったため、三浦半島の三浦義澄和田義盛ら500騎を頼りにしており、三浦一族は合流すべく軍を発しました。
当初、水軍(船)で相模湾を横断する予定でしたが、悪天候のため、陸上移動に切り替えたと言います。

三浦義澄 三浦義連 大多和義久 大多和義成
津久井義行(津久井次郎義行、筑井次郎義行) 
和田義盛 和田義茂 和田義実
多々良重春 多々良明宗



当然、平家は討伐の軍を発して、大庭景親(大庭城主)、俣野景久(大庭氏)、河村義秀(波多野氏)、渋谷重国(秩父氏)、粕屋盛久(藤姓)、海老名季貞(横山党)、曽我助信(曽我祐信)、瀧口経俊(山内経俊、須藤氏)、毛利景行(藤原景行)、長尾爲宗(大庭氏)、長尾定景(大庭氏)、原景房(原宗房、惟宗姓)、原義行(原行能、惟宗姓)、熊谷直実(私市党)、飯田家義梶原景時(大庭氏)、荻野俊重(横山党)ら相模の平家寄りの諸将が3000騎を率いて伊豆へと向かいます。

そのため、源頼朝は石橋山に陣を構えて、谷ひとつ隔てて大庭景親の大軍と対峙し、石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)となりました。
相手が大軍であったため、道が狭い箇所にて迎え撃とうと考えたのでしょう。
作戦的には悪くないですね。

しかし、伊東の豪族・伊東祐親が300騎を率いて、源頼朝の背後を塞いだため、源頼朝は挟まれた形になり、状況的にはかなり不利になります。
頼りの三浦一族も、大雨も降った為、酒匂川が増水し渡河できず、合流が困難となり、増々不利でした。

このような状況の中、平家側の大庭景親は有利な状況でしたが、三浦勢が到着する前に、雌雄を決した方が更に得策だと判断したようで、1180年8月23日に暴風雨の中、夜戦を仕掛けます。

平家物語によると、北条時政と大庭景親が名乗りあう「言葉戦い」が行われたあと、戦闘になったとされます。



大庭景親は「後三年合戦にて、源義家に従って奮戦した鎌倉景正の子孫である」と名乗ります。
対する北条時政は「景正の子孫が、何故、義家の子孫である頼朝に弓を引くことができるのか?」と言い放ちました。
この頃の武士の名乗り合いは、このようにだいたい、相手の悪口を即興で言います。
大庭景親は「昔は主であっても、今は敵である。現在の我々が平家より受ける恩は、山よりも高く、海よりも深いのだ」と答えたのでした。
恩こそ主であると言うのは、坂東武者の根幹でもありますので、この時ばかりは北条時政の負けですね。

源頼朝勢は、三浦義明の弟・岡崎義実の嫡男・佐奈田与一義忠(真田余一)らが奮戦するも討死し、やはり兵力差は否めず大敗を喫します。
しかし、源頼朝に心を寄せる大庭勢の飯田家義の手引きによって、土肥(湯河原)の椙山に逃げ込みました。
敵の中にも平家のやり方に不満を持つものは多かったのです。

大庭勢は逃げる源氏を追って山中を捜索した結果、梶原景時が源頼朝が隠れているのを発見します。
源頼朝は、これまでと自害しようとしましたが、それをおしとどめ「この山に人跡なく、向こうの山が怪しい」と、梶原景時は大将の大庭景親にウソの報告をして、源頼朝の命を救ったのです。
そのため、九死に一生を得た源頼朝が、のちに鎌倉幕府を開くと、梶原景時は侍所別当にもなり重用されたのですね。
この逸話は、土肥の椙山の「しとどの窟」が伝承の地として知られており、土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎で隠れていたとされます。

北条宗時は別行動で逃亡した際に、伊東祐親の軍勢に捕捉されて討死しました。



しかし、源頼朝らは箱根権現社の別当・行実の保護を受けたあと、箱根山から真鶴半島へ逃れて真鶴岬から船に乗ると、海上で三浦一族と合流し、安房(千葉)を目指して落ち延びました。
<注釈> 安房に同行したのは、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、新開忠氏 安達盛長、田代信綱とされる。

そして、安房の房総半島で隠れ住んだのが、仁右衛門島と言う事になります。
その後、再起を図り、平家軍に勝利すると鎌倉幕府を創設するのです。

と言う事で、石橋山古戦場に行って参りました。

石橋山古戦場

石橋山古戦場の場所は、相模湾に面した、山の斜面にあります。

石橋山古戦場

上記は、旧道から佐奈田霊社に登る階段ですが、まだ登らないで、もう少し南下し、文三堂を目指します。

ねじり畑

その文三堂への途中、ねじり畑と呼ばれる地が、佐奈田与一の討死地点とされています。
佐奈田与一と俣野景久を組み伏せた場所ですね。
石橋山の合戦で、佐奈田与一義忠は俣野景久を組み伏せましたが、佐奈田与一の刀は血糊がついて抜くことができず、その間に敵の長尾新六(長尾定景)に討たれてしまいました。
戦いの後、この畑の作物は、みんな「ねじれてしまう」ことから、この名がついたと言われています。

文三堂

旧道をそのまま南に進み、二俣を左に曲がりますと、すぐに文三堂への階段が見えてきます。

文三堂

階段を登りきると、文三堂(ぶんざどう)がひっそりとありました。
佐奈田与一と一緒に討死した、家来の文三(ぶんざ)が祀られていると言います。
57歳だったと言う文三家康(文三家安)は、主人が討死しすると一人で敵陣に突っ込み、8人を斬ったあとに枡形城主・稲毛重成の手勢に討たれたとされます。
この稲毛重成と言う武将は、小山田城主・小山田有重の子で、その子孫は戦国時代武田信玄の家臣・小山田信茂に繋がります。

佐奈田霊社

そして、もときた道を戻り、佐奈田霊社に登る階段せっせと登って行くと、佐奈田霊社の境内にでました。

佐奈田霊社

佐奈田霊社は、佐奈田与一と俣野景久が組み討ちをする中、味方から問いかけられましたが「たん」がからんで声が出なかったため、助けてくれと言えず、そうこうしているうちに、敵に討たれてしまったという故事から「たん、咳、ぜんそく、声」に霊験があるとして、芸能人の参詣も多いそうです。

与一塚

上記は、与一塚です。佐奈田与一の遺骸を埋葬した場所とされています。
ちなみにこの「佐奈田」と言うのは、神奈川県の真田を知行していたことからの名であり「真田」と言う姓名の発祥とも言われています。

石橋山古戦場

よかったら案内もご覧ください。
各写真はクリック(タップ)すると、拡大します。

佐奈田霊社からは、東側の旧道に降りられる通路がありますので、そこを通って駐車場に戻りました。

石橋山古戦場

上記は、平家側が陣を張った場所から見た、石橋山古戦場の全景です。

小田原

反対側には小田原方面も望めました。
天気が良ければ、もっとキレイだったと思います。

石橋山古戦場への行き方

石橋山の古戦場がある場所ですが、当然、昔の街道沿いにあります。
しかし、その旧街道は、いまでも、とても狭いです。
また、伊豆半島の海岸線ですので、高低差も結構あり、旧道はいまや、ミカン畑の農道のような感じで、大きな車は通行がちょっと大変です。
時期によっては農作業の軽トラが止まっていたりもします。
交通ルールを確認致しますが「登り車両優先」ですので、お間違えないように。

石橋山古戦場の駐車場

駐車場は上記写真の佐奈田霊社の無料駐車場を拝借させて頂きました。
石橋山古戦場への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点が駐車場の場所です。
そこから、観光所要時間約30分といったところです。
夏場は「紫外線対策」と「虫除け」があると良いかもしれません。

カーナビ代わりとしては、当方のオリジナル関東地図をスマホで表示するなどして、ご活用頂けますと幸いです。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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