小山田氏・小山田有重~小山田氏の祖

かつて町田市小山田を治めた小山田氏、その末柄であり、武田信玄相模原市内を進軍した際、武田軍最強と言われた郡内小山田氏、そして、津久井に残る折花姫伝説に関連する小山田氏戦国時代に君臨した、小山田有信・小山田信茂、そして武田氏滅亡を取り上げました。

鎌倉時代初期の小山田氏

秩父党である秩父重弘の子・秩父有重は、保土ヶ谷の地(榛ケ谷御厨)を治めていたようだが、小山田荘の別当(べっとう=馬牧の管理者)に任命され、現在の町田市下小山田町大泉寺の辺りに、1171年に小山田城(館)を構えたのが鎌倉幕府有力御家人の小山田有重(小山田別当有重)であると伝えられている。
小山田有重の母は横山党・横山孝兼(小野孝兼)の娘とされ、横山党とも姻戚関係にあった。
どうも小山田有重は、横山党出身の母(横山孝兼の娘)遺領を受継いだようだ。小山田有重の妻は、八田宗綱(宇都宮宗綱)の娘で、一ノ御前(内ノ御前)とも言い、小山田神社などで現在も祭られている。
小山田有信には6人の子(5人とする説も有)がおり、長男はどうも幼少の頃に亡くなり、後継者とされる次男の小山田重義は近くの小野路城を治め、有力御家人・梶原景時(1140?~1200)の娘を妻に迎えている。ちなみに、梶原景時の母も横山孝兼の娘で、より横山党とも密接な関係になった。


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稲毛荘は小山田有重の子・稲毛重成が領して枡形城を中心地として、北条政子の妹を妻に迎え、小山田氏は源頼朝の将軍家と親戚になる。
保土ヶ谷は弟の棒谷重朝(はんがや)、また矢野口の小沢城には稲毛重成の子・小沢重政が入ったようだ。
小山田行重(又は小山田行幸)は母(横山孝兼の娘)が秩父重弘と結婚したとき持参した甲斐国都留郡田原の地を相続して移住、兄が討たれた難も逃れることができ、甲斐の小山田氏の祖となって子孫は戦国時代まで続いた。
上野原から大月にかけては横山隆兼の子・古郡氏(ふるごうり)が治めていた。

小山田氏系図
秩父重弘

妻は横山孝兼の娘

武蔵国畠山庄

(埼玉県川本町畠山)

畠山重能

(畠山庄司)

妻は三浦義明の娘

畠山重忠

(次郎)

畠山重秀

(小次郎)

-以後省略
小山田有重

(小山田別当)

妻は八田宗綱の娘

小山田重文

(小山田太郎)

伝承なく若くして死亡か?

小山田重義

(小山田重忠)

(小山田次郎)

妻は梶原景時の娘

狩野重宗

(太郎兵衛)

小山田重成

(稲毛重成)

(小山田三郎)

妻は北条時政の娘

武蔵国稲毛荘(枡形城)

小沢重政

(次郎)

-娘(千葉介常胤妻)

娘が公卿・

綾小路師季に嫁ぐ

-娘(綾小路の姫君)

榛谷重朝

(小山田四郎)

武蔵国榛ケ谷御厨

榛谷重季

(太郎)

小山田行重

(小山田五郎)

(小山田行幸)

甲斐国田原郷

(山梨県都留市)

小山田秀重

(次郎)

-戦国時代の

小山田信茂に繋がる


広大な土地を支配していた小山田氏

小山田荘は東京都町田市一帯、稲毛荘は現在の川崎市高津区から井田荘の中原区、更には小田荘は横浜市、榛ケ谷御厨(榛谷御厨)は、横浜市保土ヶ谷一帯とされ、大変広大な土地を支配していたと考えられる。
また、町田の小山田周辺は、自然の池が多数あり、適度な丘が広がっていることからも「馬」を飼育するのに適切な地と言える。

年表

1112年、小山田有重は保土ヶ谷の地(榛ケ谷御厨、榛谷御厨(横浜市旭区)を伊勢神宮に寄進
1156年、保元の乱の源義朝軍にどこの武士団にも属さない状態で小山田有重が明記されており、秩父党でもなく横山党でもなかったようだ。
1171年、小山田有重が小山田荘の別当として赴任し小山田城を築城した模様。これが正しければ東京都内で最も古い城址となった。
1180年、小山田有重が京都大番役で、兄の畠山重能、宇都宮朝綱らと平家が支配する京に上洛。その後、源頼朝が平家打倒と挙兵し、立場が危うくなる中、平家軍として木曽義仲らと戦う。
1181年、平弘貞に安堵された所領を小山田重成(稲毛重成)が押領したため、源頼朝の怒りをかう。
1183年、平家一門の都落ちの際には、秩父一族が源頼朝に荷担したことが平氏に知られ、斬首されそうになるが、平知盛・平貞能の助言で平宗盛より暇をうけ、小山田有重、畠山重能、宇都宮朝綱らは寛大な処置に涙ながら関東に帰国。
1184年、源頼朝の命にて鎌倉での酒宴に出席した一条忠頼を、小山田有重と天野遠景が暗殺。
1190年、源頼朝上洛の際、御家人衆として小山田重成(稲毛重成)も随行。
1199年、稲毛重成の妻が亡くなった際に、供養にと相模川に橋をかけたと言われるが、その橋の完成の祝いに訪れた源頼朝が帰り道に馬から落ちて、やがて命を落としたことで有名な馬入川(相模川)の話もある。
源頼朝の死後、執権・北条氏(北条時政ら)の策略が盛んになり、1200年梶原景時が粛正されたのを手始めに、畠山氏滅亡の際、同族として 3男・小山田重成(稲毛重成・枡形城)と、4男・小山田重朝(榛谷重朝)、5男・小山田行重も二俣川で殺害された。その後、相模の小山田領は執権北条氏の支配下となり、その後扇谷上杉氏の統治下となったようだ。
小山田有重の6男?・小山田行幸は、恐らくは幼少だった可能性もあり、その為命は許されたのか、祖母・小野孝兼の娘が祖父・秩父重弘に嫁いだとき持参した、小山田都留郡田原の私領とされる甲州郡内(山梨県大月市)に移され、大月で郡内小山田氏として再興し、大月の小山田氏は後世まで残った模様だ。
1227年に家督を小山田有重の子である小山田行重に譲った?とある。
1333年、新田義貞の挙兵に小山田高家(小山田小太郎高家)なる人物が参加し、小山田郷を取り返す。 しかし1336年5月25日湊川の合戦で戦死。その後小山田の領地は再び人手に渡ったようだ。

戦国時代、小田原北条氏の支配になると小山田館は「小山田の要害」と呼ばれ、小田原北条氏により再整備されたようで、北条家家臣に小山田弥三郎なる人物がおり、小山田城にいた模様だ。

小山田一族は多数おり、また唐木田には隠し砦があったとされ、唐木田(多摩市)付近の谷は小山田氏の支族と考えられる島崎氏(島崎屋敷・棚原城)、中島氏(中島屋敷)、永島氏(永島城・多摩市落合)が居住しており、島崎二郎らこの3人は小田原北条氏の八王子城落城の際には八王子城にこもり討死したとされる。

武田信玄に属していた小山田信茂(1539年~1582年)は郡内・大月の岩殿城城主で、武田軍団でも最強と言われた武士団となる。

余談 源頼朝が落馬した旧相模川の橋?

茅ヶ崎市下町屋の国道1号線と交差する小出川の下町屋橋のすぐ脇で、1923年(大正12年)の関東大震災とその翌年の地震によって、突然橋脚が水田の中から姿を現した。
橋柱の間隔は横幅21m,長さ60mと推定され、かなり大きな橋だったことがわかる。
この橋こそが、稲毛重成が築き、源頼朝が落馬した馬入川(相模川)の橋ではないかと考えている。
源頼朝の死因は諸説あるが、この橋の竣工式に出席した帰途、源義経や弁慶の亡霊に遭い、驚いた馬から落馬して、その怪我がもとでのちに死んだとも言われている。
現在は国指定史跡として旧相模川橋脚公園と整備されている。

余談 スーパーいなげや

川崎市を中心に関東に約130店舗(従業員約2000名)と展開しているスーパー「いなげや」(東証1部上場)は、もともと魚屋「稲毛屋」で、稲城出身の創業者が稲毛氏にあやかって「稲毛屋」を店の名前にしたと言う。創業は1900年(明治33年)だ。

小山田氏に関連する 浄瑠璃姫伝説(長池伝説)
小山田城跡
小山田重義について
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