武田氏滅亡と武田勝頼 天目山の戦いと小山田氏滅亡





武田勝頼(たけだ-かつより)の最後と小山田信茂(小山田左兵衛尉信茂)の最後は、年月日を追ってご紹介したい。なお、月日などは良く分っていない部分もある為、参考として欲しい。

1575年、長篠の戦いで多くの武将を無くし、弱体していた武田勝頼は、1581年、徳川の高天神城攻撃に後詰(援軍)することをせず、結果、武田家の威信を大きく下げることとなり、一門衆や重臣の造反が始まることになった。
そんな中、穴山梅雪の勧めにより、新府城(韮崎)を建設開始したものの、金山の金産出も低下している中、本拠地を甲府から移す反発の他、膨大な軍資金を家臣や領民に課すことになり、武田勝頼と一族・家臣・甲府領民との決裂を決定づけた。
1582年2月、妹の婿である木曽義昌(木曾義昌)が新府城築城のための負担増大への不満から離反し、武田勝頼が木曽討伐の軍を出すと、織田信長・徳川家康連合軍に北条軍も加わった25万の大軍が武田領に攻め込んだ。


1582年2月28日、高遠城を守る武田勢3000に対して、織田軍は30000(53000とも)で攻め、高遠城落城。城主だった武田勝頼の弟で、猛将・仁科盛信討死。また救援で高遠城に入っていた仁科盛信の副将、石田小山田氏系の小山田昌行も戦死。小山田昌行の長男・小山田昌盛、弟の小山田昌貞(小山田大学)も共に戦死。今福昌和・原貞胤も討死。
(3月2日とする説も有)
小山田昌行の子・小山田茂誠(小山田重誠)は、真田昌幸砥石城(戸石城)に籠ったようで生き残り、武田滅亡後に真田家臣となった。 そして真田昌幸の長女、村松殿を正室に迎えている。石田系小山田氏は、江戸時代真田氏の松代藩においても、真田重臣となり続いた。



武田勝頼は15000で出兵し一旦は諏訪に進軍したが、韮崎にある未完成の新府城に撤退する。
3月1日、武田一族でしかも筆頭と最も信頼して、甲斐の留守を預けておいた穴山梅雪が徳川家康を通じ、織田勢に寝返り駿府へ逃亡する。
穴山梅雪(穴山信君)は、母が武田信虎の娘(武田信玄の姉)で、また妻は武田信玄の妹(見性院)と言う、武田親族でも最も信頼できる一門衆であった。
3月2日、新府城は未完成と言うこともあり大軍を迎え撃つには不十分と言う判断になり、真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻町)に逃亡するか、小山田信茂の岩殿城(大月)に逃亡するか軍議を開く。
真田昌幸は要害である岩櫃城行きを勧めたが、小山田信茂は、岩櫃城行きが遠路であり、雪が深いことから、岩殿城行きを説く。武田勝頼は一旦は岩櫃城で再起を期すことに決したが、裏切った家臣のほとんどは信濃衆、また先祖代々支配した甲斐の国から離れがたいと言うこともあり、岩殿城まで退却して織田勢を迎え討つことに変更し、最終的に武田勝頼は姻戚関係のある武田一族でもあり古参の小山田信茂の岩殿城行きを決意する。

3月3日、新府城に火を放ち、人質で預っていた木曽氏の母・子などを処刑。約700人の軍と、共の者で出発。
逃亡した道沿いには下記写真の「涙の森」などの言い伝えが残されている。

涙の森

日中に甲斐善光寺に立ち寄り、僅か1日で甲府盆地を走り抜け、夕方おそく大善寺(勝沼)に到着。しかし、夜陰にまぎれて、多くの家来が逃走。
大善寺では境内に庵を構えていた武田信虎の弟・勝沼信友の娘といわれる理慶尼(りけいに)が武田勝頼一行を出迎え、厚くもてなしたと言う。この理慶尼が書いた「理慶尼記」は別名「武田勝頼滅亡記」と呼ばれ、武田勝頼の最後の様子を叙事詩的に描いており、現在大善寺に写本が残されている。
3月4日、小山田信茂は母を武田勝頼に人質として差し出し、一足先に岩殿城へ出発。武田勝頼に従う者はどんどん減り、200人足らずになっていたが武田勝頼一行も岩殿城を目指し出発し、途中、横吹(現在の共和地区)で休憩。その後、笹子峠の麓(ふもと)に着く。武田勝頼は駒飼(現在の日影)、家来は鶴瀬に宿泊し、小山田信茂からの迎えの軍を待つ。
※諸説あり、笹子峠から鉄砲で撃ち掛けられ、大月に行けなかったともある。
3月6日、織田信忠らが甲府を占領。
3月7日、織田信忠は一条蔵人の私宅に本陣を構える。以降、武田一門・親類や重臣を探し出して、これを全て処刑。一条信龍・諏訪頼豊・武田信廉などが処刑された。
3月9日、待ちわびた小山田信茂の従兄弟で家人の小山田行村(小山田八左衛門尉行村)が駒飼に来て、武田勝頼に拝謁。翌日の朝、小山田信茂が自身が迎えに来ると述べたが、それはウソで、その夜、人質だった母親を連れて行方不明に。
3月10日、小山田信茂の謀反が明らかとなり、武田勝頼一行は行き場を失う。家来が次々と逃げる中、土屋昌恒の進言で、武田家祖先の墓がある天目山栖雲寺を目指し、そこで最後の戦いを挑むことになる。
早朝、秋山光継(秋山紀伊守光継)、阿部加賀守、金丸定光、土屋昌恒ら残っていた43人ほどの家来と共に出発。初鹿野から日川の峡谷づたいに田野の里に午後到着。

田野の景徳院

大蔵沢まで進むと、辻盛昌(辻弥兵衛盛昌)(1538年~1612年)(山梨県笛吹市南野呂)が裏切り約300で待ち構えていた。
※近年の調査では、辻盛昌(辻弥兵衛盛昌)は実際には裏切っていないとされており、滝川一益の別働隊が日川の上流部に廻り込み、挟み撃ちにしたようだ。
大蔵沢の上流に敵がいたため、どうしようかと武田勝頼が腰かけて考えたのが、下記の思案石。

大蔵沢の思案石

そして、渓流の断崖絶壁の場所にて、その別働隊と土屋昌恒が千人切りと称される決死の奮戦を行い、追撃を遅らせた事となる。

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このようにして栖雲寺行きを諦めて田野に戻った武田勝頼は、死出のはなむけにと、死を覚悟した者達だけで息子・武田信勝に家督を譲る儀式を行う。
天目山は残雪を残して寒気厳しく、その夜、疲れ果てた主従の元に、蟄居幽閉を命じていたはずの小宮山友晴が主君の窮地を知り、武田勝頼の元に1人参じた。最後の戦いにて御盾になりたいと進上し許される。 
3月11日、山霧の中、武田勝頼は、現在の景徳院より少し下流にあたる鳥居畑に陣を張った。

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小宮山友晴(小宮山内膳友晴)は更に100mほど下流部分の四郎作に陣を構え、四郎作の戦い(天目山の戦い)となる。

四郎作

四郎作の武田勢は僅か数人で、織田勢の滝川一益、河尻秀隆ら約4000と戦う。小宮山内膳友晴は十数本の矢を受け討死。
鳥居畑でも武田勢は全員討死。水野田では敵に追いつめられた侍女16人が自刃し、川に身を投げた。

日川の竜門渓谷

本陣にも織田勢が攻撃開始。武田勝頼、武田信勝、金丸定光、土屋昌恒らは戦うが、武田信勝は鉄砲で打たれ、動けなくなり土屋昌恒に介錯され自刃。(享年16)

武田信勝の生害石

武田信勝の最期を見届けた武田勝頼・正室の北条夫人(北条氏政の妹、北条院、桂林院)は、武田勝頼の前で自刃。(享年19)
倒れた北条夫人の近くで武田勝頼も自刃。(享年37) 介錯した土屋昌恒も自刃(享年27)。秋山親久も殉死。

武田勝頼の生害石

日川の姫ケ淵は北条夫人の侍女16人が日川に身を投げたと言われている。
こうして武田家は滅びた。


黒髪の乱れたる世ぞ、果てしなき思ひに消ゆる露のたまの緒  相模(勝頼夫人)
朧(おぼろ)なる月のほのかに雲かすみ、晴れて行くへの西の山の端  武田勝頼
あだに見よ。誰もあらしの桜花。咲きちるほどは春の夜の夢  武田信勝(勝頼嫡子)

天目山の戦い

小山田信茂は、最後に織田勢へ寝返ったことにより、多少、知行は減らされても、織田の配下として生き残れると思ったのだろう。
武田滅亡後、すぐに甲府善光寺を本陣としていた織田信忠を訪ね、3月14日に謁見するものの「主君・武田勝頼を裏切るとは何たる失態」と、3月15日、甲府善光寺において、堀尾吉晴の家臣・則武三太夫が介錯のもと小山田信茂は切腹。小山田氏に応じていた秋山万可斎の他、同行していた70歳前後の老母、妻、さらにわずか8才の小山田信茂の子や3歳の娘までもが処刑された。(3月14日、3月24日とする説も有)
また、同時に武田左衛門佐・小山田八左衛門・小菅五郎兵衛も処刑されたとされる。
織田信長によって小山田信茂が殺された旨を記載する小説や記述もあるが、3月の時点で織田信長は甲府にはまだ入っておらず、正確には織田信忠(手を下したのは堀尾吉晴の家臣・則武三太夫)が正しいようだ。しかし、織田信忠が大将とは言え、敵将の扱いを独自で判断することが許されていたとは考えにくく、使者を出して織田信長に判断を仰いだと小生は考える。
小山田信茂の数代前に分家した石田系とは言え、小山田を名乗る小山田昌行らが高遠城で抵抗したことや、勝敗の体勢が決まった後に帰順してきたこともあり、織田信長にしてみれば、小山田信茂は許すに値せずと言う考えだったのだろう。
なお、小山田信茂の最後には諸説あり、甲斐善光寺に出向いたが、身の危険を感じ善光寺金堂の縁の下に隠れたところを大泉坊という山伏に見つかり、東光寺まで逃げたものの討ち取られた。甲斐善光寺近くに首塚がある。ただし、その首塚に埋められたのは胴体で、首じたいは京でさらされたという説。初狩の随龍庵に遺体を埋めたと言う説もある。
郡内・小山田氏の菩提寺は桂林寺で、現在でも墳墓の跡がある。

4月3日、織田信長が甲府に入り、有名な塩山恵林寺山門を焼く事件が起こる。
4月10日、織田信長、甲府を出発し、富士山を見物して安土への帰路に立つ。
5月15日、徳川家康と穴山梅雪斎は、安土城明智光秀の接待受け、その後奈良・堺を見物する。
6月2日、織田信長は本能寺で明智光秀に討たれた。武田滅亡から約3ヵ月後の出来事だった。

小山田有信(出羽守)の5男・小山田行村(小山田八左衛門尉行村)に関係ある伝説とされる「折花姫伝説」が相模原市津久井に残る。
また、小山田信茂の娘や武田勝頼の娘に関連する話として「松姫」もご紹介している。


なお、特筆すべき点として、武田勝頼は滅亡する1年前の1581年1月に新府城を築城開始したが、同年3月20日に岩殿山城に兵を入れて、岩殿山城をより強固な城へと改修開始している。
これを考えると、岩殿城はこの頃、武田勝頼の物とも考えられ、小山田信茂が黙って見ていたとしても、すでに武田勝頼に対して快くは感じていなかったのかも知れない。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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