理慶尼(勝沼松葉)~大善寺にある理慶尼の墓


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 理慶尼(りけいに)の名(俗名)は松の葉、松葉。
 武田氏の第17代当主・武田信縄の子・勝沼信友の娘。
 勝沼信友は勝沼館主(勝沼城主)としても知られ、理慶尼(勝沼松葉)は武田信玄の従妹に当たる。

 兄に上野原加藤氏の名跡を継いだ加藤信厚がいる。

 理慶尼は1530年生まれで、同年代の武田家ゆかりの女性としては、武田信玄の側室・諏訪御料人が有名だ。

 1535年、郡内へ侵攻した相模の北条氏綱との山中湖畔における山中の戦いで、父・勝沼信友が討死。
 その後、長兄・勝沼信元が勝沼家250騎を継ぎ、1542年の諏訪頼重攻めから武田信玄に従い転戦したが、勝沼館は親族の今井信甫が入った。

 なお、高野山の引導院日牌帳によると、理慶尼はこの今井信甫の母とあるが、今井信甫は1488年生まれで1575年に没しているため誤記か?

 さて、松葉は雨宮良晴(雨宮織部正良晴、雨宮景尚)に嫁いだ。
 1546年に武田勝頼が生まれると、乳母を務めたともされる。

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 しかし、1560年、長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻の際、秩父の藤田康邦(藤田右衛門)の調略に長兄・勝沼信元が乗り、謀反を企てたことが発覚。
 その為、雨宮良晴は勝沼松葉を離縁した。
 そして、武田信玄の命を受けた山県昌景が勝沼信元を誅殺し、勝沼家は断絶したため、戻るべき家が無い勝沼松葉は、大禅寺・護摩堂の阿閣梨慶弥に学ぶと尼となり理慶尼と称して小さな庵を構えた。
 なお、大善寺に入った際には子を宿しており、子孫を残した。(男女かは不明)

 大善寺の山門前

 そんな縁から1582年に新府城から岩殿山に逃れる武田勝頼北条夫人・武田信勝と共に、理慶尼の大善寺に1泊して、4人で本堂(薬師堂)に宿泊した。
 その武田勝頼一行には、かつての夫・雨宮良晴(雨宮織部正良晴、雨宮景尚)も従っていたようだ。
 新府城を出た際に700いた家臣らは、逃亡が相次ぎ、この大善寺を出発した際には200まで減っていたが、雨宮景尚は最後まで従い天目山の戦いで殉死した忠臣となった。

 その大善寺・薬師堂は現存し、現在、国宝に指定され内部を有料拝観できる。
 個人的にも非常におすすめな関東屈指の古刹だ。

 なお、理慶尼は武田勝頼の死までを記した「理慶尼記」(武田滅亡記、大善寺蔵)にて詳細に記録しており、真偽の問題はあるが非常に参考になる。

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 慶長16年(1611年)8月17日、大善寺で82歳で没した。
 理慶尼が生んだ子の子孫は、代々大善寺の近くに住んだとされるが、享保年間に絶えたと言う。

 → 大善寺の詳細はこちら

 

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  1. 2015年 3月 16日

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