最後の最後まで武田勝頼に仕えた土屋昌恒



 使番12人衆より武田信玄の守役に登用された金丸虎義(金丸筑前守虎義)の5男として、1556年誕生。金丸惣蔵と称していたようだ。

 そもそも金丸氏は、甲斐武田氏14代の武田信重の子・武田光重が途絶えていた金丸氏を再興して金丸右衛門尉を称し、甲斐西郡徳永村(南アルプス市八田村)を領した事から始まった、いわば武田信玄(19代)と親戚衆である。

 金丸惣蔵は13歳で初陣をかざり、首級をあげるという目覚ましい働きを見て、岡部定綱が一目惚れしたと言われ、岡部定綱は養子にもらいたいと武田信玄に申し入れたと言う。

 1570年15歳の時、正式に話がまとまって武田海賊衆の総司令官となっていた岡部貞綱の娘婿に金丸惣蔵が入ると、岡部貞綱自身も武田信玄から「土屋姓」を賜ったようで、金丸惣蔵も土屋昌恒と改名した。

 実兄である金丸昌次は1569年三増峠の戦いの後、すでに本筋に当たる土屋の名跡を継いでいる。(土屋姓を継いだのは1568年とする説も有。)

 土屋昌恒の養父である土屋貞綱は長篠の戦い(1575年5月21日)にて討死し、土屋家の家督をついでいた実兄の土屋昌次も長篠で鉄砲の一斉射撃を浴びて討死。
 土屋昌恒は落ちのびる武田勝頼の供をして甲斐に行き、両方の土屋家の家督を土屋昌恒が継いだ。



 土屋貞綱ゆずりの同心には大石四方助(よものすけ)、沢江左衛門、常磐万右衛門、入沢五右衛門(入江五右衛門?)、小塩六右衛門らがおり、兄・土屋昌次系の家臣には脇又市 小尾監物 一宮左太夫照信 土屋二郎右衛門 那須野喜兵衛 関甚八郎 辻弥宗(総)がいる。

 土屋昌恒は武田信玄からも次世代を担う武将として期待されていた勇将で、武田勝頼の代になってからも戦いの多くに参加。
 1581年の上州・膳城の合戦では鎧を付けない素肌で城の大手に乗り込んだと言う逸話もある。

 武田滅亡の折には織田・徳川勢が甲斐に侵攻し、続々と武田家臣が離反する中、土屋昌恒は兄・金丸定光と共に最後の最後まで武田勝頼に従った。
 兄・金丸定光が1582年3月11日、天目山・田野で討死してまもなく、滝川一益河尻秀隆の兵と戦い武田勝頼と共に戦死。27歳。
 峡い崖道で織田勢を迎え撃つため片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、片手で戦い続けたことから、後に「片手千人斬り」の異名をとった。

 武田滅亡後、土屋昌恒の子・土屋忠直は、母と清水・神戸という土屋昌恒の郎党に連れられて母の実家・駿河岡部氏を頼り、駿河国清見寺に逃亡していた。

 1588年9月、徳川家康が鷹狩の帰りに清見寺で声を掛けて、土屋昌恒の遺児と分ると駿府に連れ帰り、茶阿局の養子とした。そして、母(岡部貞綱の娘)は徳川旗本で松平康親の家老である岡田元次(岡田大和守竹右衛門元次、岡田山城守元次)に再嫁した。

 別説では同じく郎党の土屋九郎右衛門信次に伴われて信州御幣川村に住居し、1583年2月徳川家康に召されたともある。
 1589年3月、10歳の土屋忠直は徳川秀忠の小姓となり、1591年10月、相模国祢宜内村300俵→3000石?。
 徳川秀忠元服の際に「忠」の一字を拝受して土屋忠直と改名し、下総相馬郡に移され1000石?。

 その後、上杉征伐、信州上田城攻めで軍功があり、土屋忠直は1602年に久留里藩主として21000石の大名に取り立てられた。
 土屋忠直の次男・土屋数直は、徳川家光に近習し老中まで昇進。
 常陸の土浦藩主となり、45000石。土屋氏は幕末まで栄えることになる。

 → 武田勝頼が討死する天目山の戦いはこちら
 → 実際の武田勝頼の死は?
 → 穴山梅雪とは~武田家の親族衆筆頭
 → 最後の最後まで武田勝頼に仕えた土屋昌恒
 → 跡部勝資~最後まで勝頼に従い共に討死した武田忠臣
 → 景徳院 鳥居畑の戦い(天目山の戦い)と武田勝頼の墓 訪問記

 

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