武田信廉 武田信玄の影武者 画家としての才能も

武田信廉

武田信廉(たけだ-のぶかど)と言う武田信玄の弟がいますが、戦国時代では名が知れば知るほど暗殺のリスクが高まってしまいます。
戦国武将たちはそのリスクを回避するためにあるものを用意しました。

それは影武者です。戦国時代では影武者ではなく影法師と呼ばれていました。

影武者を用いたことで有名な人物は武田信玄で黒澤明監督の「影武者」という映画も信玄の影武者を題材にしています。

信玄には3人の影武者がいたそうですが、今回は親族で影武者になった武田信廉について触れてみたいと思います。


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信廉の生い立ち

武田信玄と武田信繁の弟である武田信廉が歴史の舞台に登場するのは天文17年(1548)のことでした。
この時信玄は諏訪統一を確立しつつあり、信廉の主な役割としては調整役でした。
その務めを果たすべく諏訪家の分家であった千野氏に対して武田家に謀反を起こした諏訪西川衆の追放とそれによる領地拡大を約束しました。
また、今川義元の娘である嶺松院(れいしょういん)を武田義信の正室に迎えることを信玄に伝えており、信玄とは強固な信頼関係が構築されていました。

戦時中は後方支援や本陣の守備を任されることが多く80騎の騎馬隊を指揮していました。
兄の信繁が永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いで討死にすると親族衆筆頭に任命され、なくてはならない存在として武田家を支えていきました。
元亀元年(1570)には高遠城の城主に抜擢されました。

元亀4年(1573)に信玄が没すると一族の重鎮として君臨し、要職を任されました。
1年後には父である武田信虎が帰国を望んだため、信廉は身柄を引き取り高遠城に住ませました。
その後天正4年(1575)の長篠の戦いでは中央に布陣し、山県昌景の次に織田・徳川連合軍に攻撃を仕掛けました。


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同じく織田・徳川連合軍との戦であった天正10年(1582)の甲州征伐では織田信忠から攻撃されますが、大して戦うことなく甲斐へ撤退しています。
その後は残党狩りによって捕らえられ森長可の配下、各務元正(かかみもとまさ)に殺害され51歳の生涯に幕を閉じました。

信廉は生前、信玄と同じく出家し、名前を逍遙軒信綱(しょうようけんのぶつな)と改めています。
一般には武田信廉よりも逍遙軒の方が知られています。

影武者として優秀だった信廉

信廉は信玄と骨格が似ているため影武者を務めていました。
瓜二つの顔をしていたため側近でも見分けがつかなったそうです。
まさにドッペルゲンガーですね。

信玄の死後は信廉が信玄に成りすまし、西上作戦中の武田軍を甲府へ引き上げさせました。
また、側近でも見分けがつかないことが功を奏し北条氏政が信玄の死を確かめるため部下の板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)を派遣しましたが、最後まで信廉であることは気づかなかったそうです。


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意外な一面、画の才能を持っていた

実は信廉は画の才能がありました。
信廉は信虎帰国後に書いた「武田信虎像」や「武田信虎夫人像」などの肖像画の他に「渡唐天神像」などの絵画を残し、画家としても知られています。

(寄稿)拾丸

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