武田信勝 織田信長と武田信玄を祖父に持つ御曹司 

武田信勝


甲斐武田家の最後の当主は?と聞かれると誰もが一番初めに武田勝頼を思い浮かべると思います。
しかし、甲斐武田家滅亡直前に勝頼は当主を降りており、息子の武田信勝(たけだのぶかつ)に家督を譲っていました。

今回はあまり知られていない甲斐武田家最後の当主、武田信勝を紹介したいと思います。


信勝の生涯

信勝は永禄10年(1567)に産まれました。
父は武田勝頼で母は龍勝院であります。
龍勝院は織田家と武田家と良好な関係を築いていた遠山家の者で織田信長の養女になります。
そして、嫁いだ先が武田家であるので龍勝院は良好な関係を築きたかった織田家と武田家を結ぶ架け橋のような存在だった可能性があります。

このような背景もあり、信勝はなんと信玄を祖父に信長を形式上祖父に持つとんでもない人物であることがわかります。

信勝は4歳の時に勝頼に従い、武田信玄のいる躑躅ヶ崎館へ移りますが、2年後の元亀4年(1573)に信玄は病没してしまいます。
信玄は亡くなる前に遺言として「信勝が元服をするまで当主の代わりを務めてほしい」と言われます。
これからわかるように信玄は次期当主には信勝と前から決めており、勝頼は当主不在となる時期を乗り切る代役としての役割でしかなかったことがわかってしまいます。これには勝頼の性格が一因している可能性もあります。

信玄を失った武田家は天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてしまいます。
この敗北や上杉(甲越同盟)、北条(甲相同盟)との同盟破綻を機に外交方針を一新します。
武田家は手始めに佐竹義重と同盟を結びます(甲佐同盟)。
ここから佐竹義重を仲介として織田信長に信勝を甲斐武田家の当主にすることを条件に和睦を持ちかけます。


この和睦は信勝が信長の孫であることを利用し織田家との融和を図るものでしたが、織田家は徳川家とともに武田領への侵略へと動き出しており和睦はなりませんでした。

そして、迎えた天正10年(1582)の甲州征伐。
家臣たちの相次ぐ離反により、信勝は勝頼と共に天目山の麓にいました。
しかし、多勢の織田軍には敵わないと見た勝頼が自害します。
信勝は後を追うように大竜寺麟岳(だいりゅうじりんがく:武田信廉の子)と刺し違え、16歳の生涯を終えます。

その後の甲斐武田家

信勝が亡くなったことにより、甲斐武田家は滅亡しました。
しかし、武田の名前は引き継がれ甲斐武田の重臣である穴山家の武田信治(穴山勝千代)、徳川家康の5男、武田信吉(松平信吉)へと渡っていきました。
しかし、2人とも子を産むことなく若くして亡くなってしまい、伊豆武田家を武田家の本筋とし、今も現存しています。

信勝と同時期に産まれた戦国武将たち

信勝と同時期(永禄10年:1567)に産まれた戦国武将は真田幸村伊達政宗立花宗茂と豪華な顔ぶれぞろいです。


もし、武田家が滅亡せず大名として存命していたら信勝は幸村と肩を並べて戦場に立っていたかもしれないと思うと浪漫に溢れますね。

(寄稿)拾丸

武田信廉 武田信玄の影武者 画家としての才能も
武田信勝とは
武田信玄暗殺未遂事件 義信事件から見る武田義信
弥助 信長に仕えた黒人の武士
影武者~武田信玄の影武者は何人いたのか?
妙印尼輝子 老いて最強の女性戦国武将 赤井輝子

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拾丸拾丸

投稿者プロフィール

幼い頃から歴史が好きで大学では歴史を本格的に学んでいました。
武将たちの隠れた素顔や生い立ちをわかりやすく伝え、それをきっかけに歴史を好きになってもらえたら嬉しいです。

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  • コメント (1)

    • 真田信繁
    • 2019年 4月 15日

    だっけか

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