立花誾千代と立花宗茂の2人の夫婦関係とスゴイところ

立花誾千代とは

立花誾千代(たちばな-ぎんちよ)は戸次鑑連立花道雪)の一人娘として筑後(久留米市)の問本城(といもとじょう)にて1569年8月13日に誕生しました。
母は継室の仁志姫(にし姫・西姫・宝樹院)と言う、筑後の豪族・問注所鑑豊の娘。
大友義鎮に仕える父・立花道雪は37戦37勝と言う猛将で、57歳のときに授かった子となります。
戸次政千代と言う長女がいたが、12歳で早世しており、他に男子もいなかったため、立花誾千代(立花吟千代、光照院)は父・立花道雪にとって唯一の実子となりました。
そのため、立花誾千代も溺愛を受け、立花家の後継ぎとしても期待され、育てられたと言います。


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父・立花道雪は姫の名を決めるにあたり、肥前・加瀬の高僧である増吟に頼んだことが記録に残っています。
増吟は「和らぎ慎む」「慎み人の話を聞く」と言う意味合いにて、「誾」の字をあてて誾千代姫と名付けました。
傅役には、立花道雪の後妻・仁志姫を仲介した、城戸知正が任じられています。

立花誾千代は父に似て激しい気性に育ったようで、のち西国一の女丈夫と謳われる程、男勝りに成長することになります。

1571年、父・立花道雪は豊州三老=吉弘鑑理の後任として、筑前の立花城督を命じら立花の名跡を継ぎました。

この「城督」(じょうとく)とは、領地は与えないが、軍事的な指揮権は与えると言うもので、大内家・大友家・毛利家の領国では「城主」という言葉はほとんど使われません。

こうして、立花誾千代姫も筑後・赤司城から立花城に移ったようですが、博多をのぞむ立花城にて立花誾千代は、異国から舶来した最先の珍しい品々や、話を見聞する事になったと考えられます。

1574年3月、豊後より大石火矢(大砲)2門が立花城に届けられています。
7月には、ポルトガルの交易船により虎4頭、象2頭が博多に到着しており、当時の日本人は初めて見る猛獣に驚愕したと伝わっています。
この時、立花道雪は方清法印と共に見物したとされているため、立花誾千代も見に行った可能性があります。
ちなみに、トラとゾウは豊後の大友宗麟に元へ送られ、大友宗麟は象(ゾウ)の背中に乗ったと言われています。

1575年5月28日、7歳の立花誾千代は実質的に立花家の家督を譲られました。
しかも、男子と同じ正式な手続きにての家督相続です。
そして、主家である大友家の許しを得て、1575年6月28日、正式に立花誾千代が立花城の城督に就任。
名目上とは言え、幼少の立花誾千代は「女城主」となりました。


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立花誾千代以外に立花吟千代、立花銀千代、立花闇千代、立花聞千代とも書く場合があるようです。 

立花宗茂とは

立花宗茂(たちばな-むねしげ)は、大友宗麟の重臣・吉弘鎮理(高橋紹運)の長男として1567年8月18日に生まれたとされています。
母は斎藤鎮実の妹・宋雲院。

1569年に、父・吉弘鎮理が討伐されて絶えていた高橋鑑種の名跡を継いでいだ高橋紹運と改名したため、元服後は高橋統虎(むねとら)と名乗りました。

1581年、すでに70歳の立花道雪の後継を心配した大友宗麟・大友義統は、戸次鎮連の子から、しかるべき1人を養子にして「立花城」の家督を譲るように勧めます。
この戸次鎮連(べっき-しげつら)は、戸次鑑連(立花道雪)の猶子となって戸次家の16代当主になっていました。
しかし、立花道雪は、戸次家からではなく、高橋紹運(大友宗麟の宿老・吉弘鑑理の次男)の長男である高橋宗茂(戸次弥七郎統虎)を養嗣子に迎えたいと考えます。

高橋紹運は長男であり、将来、高橋家を継ぐべき子を養子に出すわけにはいかないと何度も断りますが、高橋宗茂の優秀な器量を見込んでいた戸次鑑連(立花道雪)は断られても断られても頼み込んだようで、高橋宗茂は養子として出されました。
そして、1581年8月18日、高橋宗茂15歳と立花誾千代13歳は結婚し、高橋宗茂は名を戸次統虎(べっき-むねとら)と改めています。

ここで、少し解説しますが、立花道雪本人は、1度も立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で生涯通しています。
そのため、婿養子となった高橋宗茂の名も戸次統虎となった訳ですが、これは主家・大友本家の意向とされています。
以前の立花山城主・立花鑑載(たちばな-あきとし)は、2度、大友家に反旗を翻しており、大友宗麟は立花姓を嫌ったとも云われており、立花道雪は生涯「戸次」で通されました。
ただし、一般的に戸次鑑連は立花道雪と称されることが多いことから、このページでも立花道雪を多用しております。

なお、戸次統虎は1582年11月18日、本丸の西の城にて立花家の御旗・御名字の御祝を得て、ここで初めて立花姓を名乗り立花統虎となりました。
立花宗茂と言うのは立花統虎の晩年の名ですが、何度も名を変えているため、このページでは以降、戸次統虎・立花統虎の事は立花宗茂として記載します。
2人は幼なじみでしたが、お互いに気質が似ていた事からか?、夫婦仲は悪かったとされ、子にも恵まれていません。

大友文書によると「戸次伯耆守は大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘ありて勇壮。城内の腰元女中、50名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う。」との記述もあります。

立花宗茂は高橋紹運・戸次鑑連(立花道雪)と共に戦場に出ますが、島津家の台頭などにより各地で大友勢は敗退しており、1584年9月11日には戸次鑑連(立花道雪)が柳川城攻めの高良山の陣中にて高橋紹運に看取られながら病没します。享年73。

そして、立花宗茂と立花誾千代は、程なくして別居状態になったとされています。
ただし、立花宗茂が不在の際には、立花城の守り妻である立花誾千代が果たしており、侍女らと武装し、敵からの攻撃に備えていたと言います。


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1586年7月27日、降伏勧告を拒絶した高橋紹運の筑前・岩屋城も激戦のすえ吉田連正らが討死して陥落。
立花宗茂も援軍として奮戦しましたが、この岩屋城の戦いの戦いで無双の勇者・高橋紹運も討死しました。享年39。

そして、岩屋城に入った島津忠長・伊集院忠棟・秋月種実・原田種実らは、1586年7月末に、4万にて立花城を包囲して降伏を促します。
立花城は約20日間籠城したようですが、実際に目立った戦闘が無いまま、若干20歳の立花宗茂は降伏・開城したともされています。
ただし、どうやら立花宗茂は徹底抗戦したようで、岩屋城の戦いの戦いで消耗していた島津勢は8月24日に撤退したともあり、その後、立花宗茂は岩屋城と宝満城を奪還したようです。

このように、立花宗茂は夜襲や火計で敵本陣を同士討ちさせるなど、軍略にも長けた武将であり、1586年3月、豊臣秀吉に臣従するため大阪城を訪問した大友宗麟は、立花宗茂も豊臣家の直臣にして欲しい旨を伝えたとも言われています。

そして、豊臣秀吉の九州攻めが始まると優れた人格と器量を併せ持った立花宗茂は大活躍します。


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12万石の柳川城主に大出世

肥後国の竹迫城宇土城、島津忠辰の出水城などを陥落させて、島津忠長を撃退し、伊集院家、祁答院家、入来院家から人質をとり、大口城にて新納忠元を包囲しました。
この功績を認めた、豊臣秀吉は「その忠義も武勇も九州随一である」と立花宗茂を褒めます。
そして、1587年6月25日、立花宗茂は筑後・柳川城(柳河城)、13万2000石を与えられ、大友家から独立した直臣大名に取り立てられました。

夫から遅れる事3日後となる、6月15日(6月20日とも)に、立花誾千代は立花城を出立して柳川城に向かいしましたが、記録では「夫婦不和」との理由で、その後、立花誾千代は柳川城を出て、宮永村に居を構えてたことから「宮永殿」と呼ばれるようになっています。

これは立花宗茂が側室を迎えようと知った立花誾千代が激怒したともされ、宮永館は本格的な防御施設でもあったようです。
なお、立花宗茂は領内に立花道雪の菩提寺「梅嶽寺」を建立しています。

梅嶽寺の建立は、立花城を離れて気落ちしている立花誾千代の為であったとも考えられ、そう捕えると、子ができなかった立花誾千代は自ら別居する事で、立花宗茂が側室を迎えやすくしたとも推測できます。
いずれにせよ「逸話」は、立花誾千代が女性ながらも果敢に武装した話や、子供ができなかったことから、夫婦間は不和だったのでは?と、後年の「創作」から、色々な憶測を呼んで作られた話だと存じます。

1587年9月、佐々成政に不満をもった肥後の国人一揆が勃発すると、立花宗茂は弟・高橋統増と共に「輜重隊」を率いて出陣します。
輜重(しちょう)とは、補給部隊と言う意味で、兵糧・物資が不足した佐々成政を救援しようとしたと言う事になります。

立花宗茂は伏兵を用いるなどして南関城の大津山出羽守を討ち取り、包囲されている平山城へ物資を搬入。
火車懸の戦術にて有働志摩守を討ち取り、有働下総守と一騎討ちして勝利するなど立花勢は1日に13度もの戦いを行って一揆勢の城を7城も落とし一揆軍を総崩れにする武功を挙げました。

また田中城の和仁三兄弟を包囲中に、小早川隆景と意気投合すると義父とし、小早川秀包と義兄弟の契りを結び、共に城内に攻め込んで、立花宗茂は和仁中務少輔を討ち取っています。


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黒門の戦い

12月26日に、佐々成政と共に一揆の首謀者・隈部親永の城村城を落とした際には、隈部親永の一族ら12人を捕虜としました。
そして、豊臣秀吉は全員の処刑を命じますが、1588年5月27日、立花宗茂は柳川城東南隅の黒門にて、立花家の十時摂津ら家臣12人と、隈部一族12人とで真剣勝負をさせます。
これは、処刑が決まった隈部一族の名誉を保つようにしたもので「放討ち」という形にて全員切腹させました。
放討ちと言うのは、罪人に武器を持たせて、広場など囲いの中に解き放ち、抵抗できる状態にして討つというもので、名誉の「果し合い」と言う事です。

隈部一族の中には果敢にも応戦した者も多かったとされますが、最後には名誉の死に場所を与えてくれた立花宗茂に一礼し、最後には討たれたと言います。
なお「鎮西一」と言われた立花家臣も1人が死亡し、残りの11人全員も手傷を負っていたとされています。

この放討ちに深く感心した監察役・浅野長政は直ちに豊臣秀吉に報告しますが「さすがは立花である」と豊臣秀吉は讃え、この決闘は「黒門の戦い」と永く伝わる事になりました。

1590年、小田原攻めにも立花宗茂は出陣しますが、このとき豊臣秀吉は諸大名の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と高く褒め称えています。
そして、朝鮮攻めでも小早川隆景からは「立花家の3000は他家の1万に匹敵する」、加藤清正からは「日本軍第一の勇将」と言われ、「日本無双の勇将たるべし」と豊臣秀吉も賞賛するなど、数々の武勇伝を残しました。

関ヶ原の戦い

1600年、関ヶ原の戦いの際、忠義の士・、徳川家康から大きな恩賞を与えると言う話を断って、秀吉公の恩義の為にと石田三成に協力し、伊勢方面に進出しました。

大友氏は改易されたあと、立花家に身を寄せていた吉弘統幸は、立花家を暇請いして途中で出くわした大友義統に従っています。

伊勢方面にいた立花宗茂は、突然、東軍に寝返った京極高次が籠城する大津城を、毛利元康・毛利秀包(小早川秀包)・宗義智・筑紫広門らと攻めます。
この大津城の戦いで、立花宗茂は夜襲を予見して防御態勢を整え、家臣・十時連貞の活躍で、京極家の丸毛萬五郎、箕浦備後、三田村安右衛門ら3人を捕縛しました。

また、塹壕を掘って矢弾を防ぐ竹束を配置して、養父・立花道雪が発案した「早込」と言う3倍速による鉄砲銃撃を実施したため、大津城は銃撃に耐えられず鉄砲狭間を閉じています。

その機を見た、家臣の立花成家(立花吉右衛門)や内田統続らが大津城一番乗りを果たし、三の丸から二の丸まで突破しました。
また、長等山から大筒を撃ち込んでいます。

しかし、9月15日の関ヶ原本戦には間に合わず、小早川秀秋の内応や吉川広家毛利秀元の日和見行などにより、西軍壊滅を知ると大坂城に引き返しました。
立花宗茂は西軍の総大将・毛利輝元に大坂城での抵抗を進言しますが受け入れられず、島津義弘と合流すると、海路にて九州へ戻り10月初旬には柳川城(柳河城)へ入りました。
この時、立花誾千代は家来・従者など数十名を連れて、自ら出迎えています。

一方、九州では、黒田官兵衛鍋島直茂ら東軍諸将が、西軍に加担した城攻めを敢行しており、10月14日に小早川秀包の久留米城が37000の大軍にて包囲されて陥落しました。

そのため、立花宗茂は徳川家康への恭順を示すため城に残り、立花勢13000のうち3000を小野鎮幸に預けて10月20日、鍋島直茂と江上合戦・八院の戦いとなりますが敗戦しています。

そこで、朝鮮にて共に苦労した黒田官兵衛(黒田如水)や、救ってもらたった加藤清正らは、立花宗茂を懸命に説得します。

このとき加藤清正は立花宗茂を説得すべく柳川(柳河)に進軍する際、江之浦街道と瀬高街道のどちらが良いか?と、家臣・小野作兵衛に尋ねます。

江之浦街道を進むと、宮永という地を通ることになりますが、ここは立花宗茂夫人の御座所です。柳川の領民は立花家を大変に慕っており、宮永館に軍勢が接近したとあれば、みな武装して攻め寄せてくるでしょう

と聞かされ、立花誾千代がいる宮永村を、わざわざ迂回して瀬高街道を行軍したとされています。
また、立花誾千代は甲冑を着て、宮永館を出て、攻め寄せる東軍を威嚇かると、無断で馳せ参じた旧来の立花家恩顧の老臣の姿もあり、200の勢力になったと言います。
立花誾千代はは柳川西側の渡船口にて鍋島水軍に鉄砲を放ち、南側へ行くと宮永村にて攻め寄せる加藤清正を威嚇して、加藤軍の進路を妨害したともされています。

降伏を決意した立花宗茂は、薦野増時(立花賢賀)を加藤清正の陣に派遣して、10月25日に柳川城は降伏開城しました。
なお、薩摩に戻った西軍・島津義弘は、立花宗茂から受けた恩義に報いるため、ただちに援軍を送っていましたが、柳川付近に到着したのは開城から3日後だったそうです。

島津義弘は立花宗茂の養父・戸次鑑連(立花道雪)と争った、いわば仇敵であり、大阪から船で一緒に九州に戻る際、島津義弘はほとんどの兵を失っていました。

今こそ父君の仇を討つ好機なり

と立花家の家臣は進言したと言いますが立花宗茂は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言い、むしろ島津義弘の護衛を申し出でたと言う逸話があります。


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柳川城には田中吉政が筑後一国32万5千石となって入封し、立花宗茂(34歳)は命こそ助かりますが、領地没収の改易であり浪人となります。
加藤清正や前田利長からの誘いも断りますが、一時、加藤清正の食客にはなっていたようです。
しかし、加藤清正の元も離れると、由布惟信、十時連貞ら付き従う僅かな家臣を連れて、放浪の身で京都に入りました。

なお、加藤家の家臣となった小野鎮幸らの旧臣や商人、島津家・加藤家からも資金は援助されていたようで、貧乏浪人と言う訳ではなかったようです。
ただし、従者の由布惟信や十時連貞は生活費を得る為、虚無僧になって米銭を稼いだとも言われており、実態が掴めないと言うよりは、お金がある時もあれば、苦しかった時もあったのだろうと考えられます。

一方、正室・立花誾千代は改易後、加藤清正のもと、肥後・玉名郡腹赤村の庄屋・伊蔵(市蔵)の屋敷(熊本県玉名郡長洲町)に移り立花三左衛門が随行していましたが、1602年7月頃から病を患い、立花誾千代は10月17日に死去しました。享年34。(35とも)
これにより、立花道雪の血筋は途絶えています。

立花誾千代の菩提寺は、まちに立花宗茂が建立した良清寺(福岡県柳川市西魚屋町)で、熊本県玉名郡長洲町にも江戸時代に建立された供養塔「ぼた餅様」があります。
これは、立花誾千代の好物は「ぼたもち」であったことからとも言われています。

立花誾千代と供に市蔵宅にいた実母・仁志姫(宝樹院)は、その後、丹波鎮久にひきとられ、1616年5月28日に亡くなっています。

奇跡の復活を遂げる立花宗茂

1603年、江戸に入った立花宗茂は、本多忠勝の保護を受けるようになり、由布惟信、十時連貞などの従者と高田・宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送り始めました。
1604年になると、本多忠勝の推挙もあり、江戸城に召し出されます。
徳川家康は、もちろん立花宗茂の実力をよく知っていたため、江戸幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5000石にて直臣に迎えたのです。
立花宗茂は文武両道の名将で、連歌・書道・茶道・香道・蹴鞠・狂言・能楽・笛・舞曲・料理・竹製花器・手作り仏像・弓製作など多彩の技芸も備えていた事から、徳川秀忠の御伽衆に列すると、陸奥棚倉にて1万石の大名に復帰を果たしました。
棚倉藩の行政は由布惟信が担当しています。
1610年には、3万5000石となり、この頃から宗茂と称しました。

大坂の陣の際に、徳川家康は立花宗茂が豊臣秀頼に協力するのを恐れて、懸命に説得しています。

1615年、大坂夏の陣で立花宗茂は2代将軍・徳川秀忠の軍師参謀を兼ねて警固を担当し、大野治房の軍勢動向を予測的中させて徳川秀忠を進退させたり、豊臣秀頼が出陣しないことも予測して毛利勝永の軍勢を駆逐しました。

この功績もあって、1620年、田中氏が改易されると、立花宗茂(54歳)は柳川藩10万9647石となって旧領への復帰を見事に果たしています。
これは、関ヶ原にて西軍として参戦して改易されてから旧領に復帰を果たした「唯一の大名」と言えます。
加藤家へ預けていた旧家臣団を呼び戻したようですので、家臣らもさぞかし嬉しかったことでしょう。

そして、伊達政宗加藤嘉明丹羽長重らと、徳川家光の相伴衆となり、重用されたようで、将軍家の能、狂言、茶会の席や諸大名の屋敷が完成した際の披露会、上洛、大坂行き、日光社参などにも随伴しています。

そのため、江戸藩邸から柳川城に戻る事はほとんどありませんでしたが、1637年の島原の乱では、総大将の松平信綱を補佐として出陣しました。
この時、立花宗茂(71歳)は城兵の様子から、黒田勢への夜襲を予測して的中させただけでなく、高齢にも関わらず有馬城攻城では一番乗りを果たするなどの勇姿を見せ、諸大名に武神再来と嘆賞されました。

翌年、1638年、家督を養子の立花忠茂に譲り、1642年11月25日に立花宗茂は江戸柳原の藩邸で死去しました。享年76。
墓所は福岡県柳川市の福巖寺です。

と言う事で、熊本県長洲町にある立花誾千代の墓にお参りさせて頂きました。
下記が道路からの入口です。

立花誾千代の墓

軽自動車でも走行が無理な細い道を少し進むと右手に墓所がありました。
関ヶ原で西軍に味方して敗れた後、立花誾千代は他の家臣と共にここに住み、加藤清正の保護を受けていました。
加藤清正が米を送ったと言う記録も残っています。

立花誾千代の供養塔

供養塔は立花誾千代が亡くなってから32年後の寛永11年(1634年)に立花宗茂が建立したものとなります。

立花誾千代の墓

誾千代の供養塔と言う訳ですが、通称「ぼたもちさん」と呼ばれています。

立花誾千代の墓がある場所ですが、下記のオリジナル地図より熊本県の欄をご確認賜りますと幸いです。

当方オリジナルGogoleマップ (熊本や人吉を含む)

駐車場はありませんが、脇道は駐車禁止ではなかったので、消防自動車などの緊急車両の通行の妨げにならない所を選んで、5分ほど止めさせて頂きました。


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立花誾千代の武勇伝

立花宗茂の武勇伝の方が遥かに多いですが、最後には立花誾千代の武勇伝をご紹介したいと存じます。
なお、一部は「創作」である話もあると存じますので、すべてが真実と言う事ではないことを予め明記させて頂きます。

柳川城に移る際に、立花誾千代は、たとえ所領を削られても、父・道雪や祖母(養孝院)の眠る立花の地を離れたくないと、立花統虎や侍女達を困らせたと言われています。

立花宗茂が文禄・慶長の役にて不在の間、豊臣秀吉は立花誾千代を言葉巧みに名護屋城に呼び寄せて手込めにしようとしたとされます。
それに対して、立花誾千代はお付きの女中にも鉄砲を持たせて護衛させ、また自らも甲冑を着て名護屋城に乗り込んだと言われています。
豊臣秀吉も「流石は立花の妻女である。武家の妻とあれば、平時において、かくも立派心がけである。」と、大いに褒め称えたとも言います。

関ヶ原の戦いで敗北した際、居館から甲冑を着て出撃し攻め寄せる東軍を威嚇したとあります。
この時、立花誾千代姫は、宮永館を守る為「さては肥前勢が間もなく攻め寄るであろう。我は仮令女の身ではあるが、道雪の女である。一死を以って国に殉じ、先考の名を汚すまい」と述べ、紫威の鎧で身を固めて、大薙刀を小脇に抱えたとされます。
そして、臨戦体制を敷き女房衆や侍女達にも、一様に唐紅の装束に甲冑をつけさせるなど、的確な指示をあたえていました。

晩年、肥後の腹赤村に移った立花誾千代は、次第に食も細くなったようですが、供の者を出して、父・立花道雪が信奉していた稲荷社から御札を取り寄せ「妾の命に代えて、夫・宗茂を再び世に送り出し給え」と願をかける日々を過ごしたと言われています。

立花宗茂は、立花誾千代が死去した後、2人の継室を設けていますが、子を設けるには至りませんでした。
現在の柳川市にある「三柱神社」では、藩祖・立花道雪、そして、立花宗茂と立花誾千代の夫婦を祭神として祀っていることからも、決して仲が悪かった2人ではないのでは?と思うのは、私だけでしょうか?


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以上、長文、最後までご覧頂きました事、深く御礼申し上げます。

戦国時代の女性城主(領主)の例

女城主と言う定義をどのような基準にするか?の問題もございますが、ご参考までに・・。

足利氏姫井伊直虎おつやの方お田鶴の方・椿姫小松姫(稲姫)など

立花道雪とは~戸次鑑連が雷神と呼ばれる由縁とその魅力
高橋紹運と立花直次~岩屋城の戦い・岩屋城の訪問記
大友宗麟(大友義鎮)~国崩し・豊後の王
小早川元総(毛利秀包)~文武に優れた武将・小早川秀包
秋月種実~大友氏に真正面から立ち向かった九州の反骨武将~
大友義統とは~逃亡・改易・失脚・幽閉となった稀代の凡将?
吉弘統幸とは~最後は義を重んじた歴戦の猛者
本多忠勝~名槍が似合う戦国の豪将・徳川四天王としての生涯
加藤清正~肥後の虎・勇猛果敢で知られる戦国大名
島津義弘~数々の武勇を残すも実直であった文武両道の猛将

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