吉弘統幸とは~最後は義を重んじた歴戦の猛者

吉弘統幸とは

吉弘統幸(よしひろむねゆき)は大友義統の家臣である屋山城城主・吉弘鎮信(高橋紹運の兄)の子として誕生したが、誕生年は不詳だが、戦国時代の1564年生まれと考えられる。
はじめは吉弘統運と名乗った。

1578年、耳川の戦いで父・吉弘鎮信が討死すると家督を継いだ。
父と同様に、平時は筧城にて政務を行い、屋山城は詰城として活用していた。
1579年、主君である大友義統(大友宗麟の嫡男)は吉弘統幸(吉弘嘉兵衛)に、謀反の恐れがある田原本家に備えて、秘密裏に屋山城の改修を要請したとおり、1580年に田原親貫が反旗を翻すと、鞍懸城攻略などでは大将として活躍した。


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大友義統が豊臣秀吉に臣従すると、1586年、島津家久率いる島津勢と戦った戸次川の戦いに、豊臣勢として長宗我部元親長宗我部信親仙石秀久十河存保と大友義統の軍として参戦したが敗退。
撤退の際には島津勢の追撃を受けた大友義統を救援し、高崎山城、豊前竜王城へと逃す手筈を整えた。

1592年の文禄の役で、明の大軍に包囲された小西行長から救援要請を受けたが、小西行長が戦死したという誤報を受けて鳳山城を放棄して撤退した為、臆病だと豊臣秀吉の逆鱗に触れ、5月1日に大友義統は改易された。
その時、吉弘統幸は浪人となったが、中津城黒田官兵衛に招かれ、黒田家の重臣・井上九郎右衛門(井上之房)の屋敷で世話になった。
その後、従兄弟である柳川城主・立花宗茂の下へ身を寄せると2000石で仕え、慶長の役においては立花勢の4番隊を任された。
明将・李如松の軍旗を奪った功により豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞讃され、一対の朱柄の槍を与えられている。


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石田三成が挙兵し、1600年、関ヶ原の戦いが起こると、立花宗茂は西軍についた。
幽閉を解かれた大友家当主・大友義乗が、徳川家康側だった為、吉弘統幸は「世の中の成り行きを思うに、徳川家康のご利運になる事は間違いない。幸い嫡男・大友義乗が関東にいるので大友義乗を盛り立て大友家を再興しよう」と決意。
このように、吉弘統幸は大友家の旧恩に酬いようと立花家を去り、大友義乗の元へ向った。
しかし、その道中の大阪で、大友義統が西軍として大友家の再興を狙い蜂起したと聞き、旧主君・大友義統と泉州境にて再会したのだ。

大友義統は毛利輝元の支援を受け、広島城から西軍として旧領の豊後奪還を狙っていた。
吉弘統幸は「この度の乱は、天下を望む石田三成の謀計であり、例え勝利したとしても末代まで悪名を残すと」と反対し、現在の当主・大友義乗も加わっている東軍加担を進言したが聞き入れられられなかった。
一旦は別れて江戸に向かった吉弘統幸であったが「命運尽きようとしている見捨てるのは不義であり、もはや我が運命は尽きている。ならば、大友義統の供をしよう。」と、船に乗り大友義統のあとを追いかけた。

大友義統に従うと吉弘統幸は旧領の屋山城にて籠城。
大友義統は戦勝のあかつきには「豊後・豊前二ヶ国の恩賞」を石田三成が約束されていたとされ、田原家・宗像掃部などの旧臣も諸国から合流し大友軍は緒戦を有利に戦った。

大友義統が豊後に攻め込めと、吉弘統幸は細川忠興の家臣・松井康之が守る杵築城を攻めて、二の丸まで陥落させたが、黒田官兵衛の援軍が接近してきた為、攻略を断念。
黒田官兵衛の軍勢と豊後・石垣原の戦いで激突した。

吉弘統幸は、釣り野伏せ戦術を使って鉄砲隊に攻撃させ、黒田勢の先鋒隊に大損害に与え、自身も得意の槍を振るって奮戦。
緒戦で母里太兵衛(母里友信)の率いる先鋒隊を破り、久野次左衛門・曾我部五右衛門と激しく揉み合い、小田九朗左衛門など30~40人を自ら討ち取ったとされる活躍をして、数が多かった黒田勢の井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤太郎助を相手に優位に戦を進めた。

しかし、黒田官兵衛の本隊がいつ到着するかわからないという戦況であったため、全体の士気が振るわず、次第に大友勢が劣勢となる。
大友勢は配線濃厚で、もはや疲れ果てた吉弘統幸は主君・大友義統に別れを告げ、1600年9月13日、残りの手勢30余騎で黒田勢に突撃を敢行。果敢に挑み華々しい討死を遂げた。
七つ石において旧知の黒田家臣・井上九郎右衛門(井上之房)に功を挙げるため、自刃して討たれたとも伝わる。
享年は37とも?


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吉弘統幸の討死によって大友勢は事実上壊滅し、大友義統は剃髪し妹婿の母里太兵衛 (母里友信) を通じて、黒田官兵衛に降伏した。

吉弘家の屋山城は黒田官兵衛に攻められ、吉弘統幸の妻(志賀道輝の娘)を守るため、僅かな兵力の城兵は果敢にも応戦したが、多くは討ち死したと言われる。

吉弘統幸は石垣原の戦い前夜に「明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」という辞世を残している。

黒田官兵衛は『黒田家譜』において、石垣原合戦の項目で吉弘統幸のために特に一節を設け、忠義を称えた。

吉名川悲話(よしながわひわ)

吉弘嘉兵衛統幸は石垣原の戦いで黒田如水の大軍と戦い、壮絶な戦死を遂げたが、その首は首実検の後、石垣原の獄門台に晒されたという。
吉弘統幸の戦死を聞いた吉弘家の菩提寺・金宗院の住職は、吉弘統幸の霊を弔うため、密かに石垣原へ首を取り戻しに行った。
吉弘統幸の首は風に光るカヤ原の中に変わり果てた姿で晒されており、住職は涙ながらに首を背負い、鹿鳴越より奥畑を経由して、やっとの思いで故郷長岩屋に帰ってきたと言う。
そして、長岩屋川で首を洗おうとすると「首」はカツと目を開き「ああ! 住職よしな(吉名・やめなさい)」と叫んだのだ。
住職は大変驚き、洗うのをやめて金宗院へ持ち帰り供養した。
それからいつしか人々は、首を洗ったこの場所(長岩屋川)を「吉名川」と呼ぶようになったと言う。


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吉弘統幸の墓

と言う事で、大分に行って参りました。
と申しましても、上記「吉名川」の話の方の、豊後高田市松行にある金宗院跡(現在は廃寺)にある吉弘統幸の墓(首)の方では無く、石垣原の戦いがあった別府市の方です。
申し訳ありません。
別府市の吉弘神社が、吉弘嘉兵衛統幸を祀る神社となっています。
後に熊本藩士となった子孫らが明治になって建立したようです。

吉弘神社

その吉弘神社本殿の裏側に吉弘統幸の墓があります。
江戸時代の頃には小さな祠しかなかったと言います。

吉弘統幸の墓

時間が厳しかったのですが、無理して訪問し、丁重にお参りさせて頂きました。

吉弘統幸の墓

さて、吉弘神社の場所ですが、下記の地図ポイント地点から境内の駐車場(約5台)に入れます。

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