十河存保とは~三好家と十河家の復活に頑張った戦国武将

十河城跡

十河存保

十河存保(そごう-まさやす/ながやす)は、1554年に三好長慶の弟・三好実休の次男として生まれました。
母は岡本牧西の娘・小少将です。
ただ、1561年、この時、十河存保はまだ8歳だったようで、後見として十河存之が家老になっており、十河城での実務は十河存之が務めたようです。

すぐの1562年に父・三好実休が久米田の戦いにて討死します。
叔父・安宅冬康も亡くなり、三好本家の三好長慶も1564年に病死し、後ろ盾が弱くなります。
足利義昭を奉戴する織田信長の上洛によりも三好家は畿内から追われて阿波に撤退。
しかし、四国の雄・長宗我部元親が台頭したため、三好家は織田信長と和睦しました。


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1572年、十河存保が勝端城に入って兄・三好長治と対立した異父兄・細川真之(阿波守護・細川持隆の子)を敗死させました。
高屋城の戦いで十河一行と香西長信も討死していますが、三好家の生き残り三好康長も、実質的に織田家のために動くようになりました。

一領具足を抱える長曽我部氏も、1579年までに藤目城や仏殿城、重清城など攻略しており、着々と領土を広げていきます。

小少将と細川真之

十河存保の母・小少将は美女であったとされ、最初は細川持隆の妻で、その死後、細川持隆を滅ぼした三好実休の妻となり、三好長治と十河存保を出産。
そして、三好実休の死後は、三好家重臣の篠原自遁篠原長房の弟)の妻となった経緯がありますが、小少将は自分の判断で再婚していたと言われています。
この最初に生まれていた細川真之は、三好家から傀儡として利用されたため、小笠原成助らと手を結び、土佐の長宗我部元親に救援を求めると、1577年、阿波・荒田野の戦いにて三好長治を討っていました。(享年25)

そして、四国では長宗我部元親が最盛期を迎えます。

本能寺の変十河城の戦い

織田信長は長宗我部元親への四国攻めを計画していましたが、1582年6月2日、明智光秀本能寺の変を起こします。
そのため、織田家の後ろ盾を失った三好康長は阿波を捨てて河内に帰還。
長宗我部信親香宗我部親泰ら長曽我部勢が、十河存保の勝瑞城を目指して岡豊城より行軍開始し、藤尾城の香川親和と香西佳清を降伏させました。
そして、十河城を包囲・攻撃しますが、家老の十河存之がよく守り、長曽我部勢を撃退しています。


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中富川の戦い

十河存保は羽柴秀吉に援軍を要請し、羽柴家からは、仙石秀久黒田官兵衛らが渡航しようとしました。

そんな中、1582年8月28日、中富川の戦いにて、長宗我部元親、香宗我部親泰、長宗我部信親、長宗我部親吉、一宮城主・小笠原成助(一宮成助)、桑野城主・桑野康明ら23000の長曽我部勢を迎え撃ちます。

十河存保は勝端城から出て、勝興寺に5000にて本陣とすると、中富川の川砂を掻き揚げた仮の陣地には2000を配置しました。
そして、対岸の長曾我部勢は川幅も広い吉野川の渡河を敢行し、激しい合戦となりました。

中富川の戦い

十河勢(三好勢)は、武将380兵、雑兵463兵(諸説あり)を失い、これまで三好家を支えて活躍していた城主も下記の通り多数討死しています。

矢上城・矢野虎村、下六条城・三好右衛門、坂東城・坂東清利、七条城・七条兼仲、板西城赤沢宗伝、保崎城・馬詰駿河守、西条城・西条益太夫、北原城・北原義行、知恵島城・知恵島重綱、南島城・甘利奥右衛門、乗島城・乗島来心、高畠城・高畠時清、第十城・第十捨太夫、日開城・鎌田光義、徳里城・白鳥左近、下浦西城・田村盤右衛門、鈴江城・鈴江友明、櫛渕城・櫛渕国武、長塩城・長塩六之進、大寺城・大寺松太夫、野本城・野本左近、大代城・大代内匠、佐藤須賀城・佐藤長勝、瀬部城・瀬部友光、高志城・高志右近、大内城・寒川三河守、宇多津城奈良太郎左衛門、飯尾城・飯尾常重、中島城・片山重長、角田城・角田平右衛門、湯浅城・湯浅豊後守、福井城・芥川宗長、大潟城・四宮光武、古川城・古川友則、市楽城・石河吉行、中庄城・中庄主膳、新居城・堀江国正、原城・原田信綱、香美城・香美馬之進、吉田城・原田小内膳、姫田城・姫田甚左衛門、由岐城・由岐有興。

これにより、再起不能となった十河存保は9月21日に降伏して、勝瑞城の明け渡して阿波から、讃岐の虎丸城へと退去しました。
長曽我部勢は、三好康俊の籠る岩倉城を攻め落として阿波を平定しています。

また、1582年10月8日には、三好越後守、矢野国村、河村左馬亮らと共に十河存保が、茅ヶ岡城の異父兄・細川真之(阿波守護・細川持隆の子)に勝利して八幡原にて自害させ、阿波・細川家を滅亡に追い込んだとされますが、年月に関しては諸説あるようです。
なお、細川真之を討ったのは長曾我部元親であるとする説もあります。

1583年8月には「三好義堅」と復姓改名し、三好家を継承する意思を表明しました。
しかし、1584年6月、ついに十河城が陥落して、三好義堅(十河存保)と十河存之は夜陰に紛れて逃走し、屋島から備前を経由して、堺へと落ち延び、羽柴秀吉を頼りました。

1585年6月、豊臣秀吉の四国攻めにより、羽柴勢が讃岐に侵攻すると長曽我部勢は撤退。
讃岐には仙石秀久が入ると、三好義堅(十河存保)は2万石となって、十河城に復帰しましたが、仙石家の与力(寄騎)と言う立場になっており、三好家の継承は認められなかったようです。

1586年、豊臣秀吉の九州征伐となると、仙石秀久に従って十河存保と十河存之も500にて出陣し、九州・大分に渡りました。
讃岐の先鋒には、大将・香西縫之助・北条香川民部少輔・寒川七郎・安富肥後守・佐藤志摩介・羽床弥三郎らが見受けられますが、仇敵である長宗我部元親・長宗我部信親の親子も、豊臣勢として同じく参じています。
そして、島津家久戸次川の戦いになりますが、十河存保(そごう-まさやす)は討死。享年33。
家老の十河存之や長宗我部信親も命を落としました。


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十河家のその後

三好義堅(十河存保)には、十河千松丸、十河存英、坂東保長と3人の子がいました。

十河千松丸(そごう-せんまつまる)は、父が無くなる間際、遺言として「自分が亡くなったら必ず秀吉に謁見させ、十河家を存続させるように」と家臣に命じていたが、十河城と所領は没収されました。
しかし、仙石秀久のあと讃岐に入った生駒親正によって、鼻紙代として3000石が与えられており、十河千松丸は生駒親正の元で養育されたと言います。
そして、1589年7月に、15歳で豊臣秀吉に謁見を果たしました。
豊臣秀吉は、3000石しか領地を与えていないことに悲しんだとされますが、帰国後に千松丸はまもなく病死しました。

十河存英(そごう-まさひで/ながひで)は、幼くして浪人の身となったと言います。
大坂の陣の際には、豊臣秀頼に協力して大阪城に参じますが、1615年5月、尼崎にて討死し、十河氏直系は断絶したとされます。

坂東保長(ばんどう-やすなが)は、本能寺の変より前年の1581年9月に、勝瑞城を退去して阿波郡秋月村に移り住んだとされます。
嫡男・亀若丸は坂東保久を称して、庄屋になりました。
この坂東保長と言う人物はナゾが多く、一説では三好長慶の叔父・三好康長ではないか?ともされます。

他にも十河豊前守長康、十河雅楽頭存純、村田九兵衛存継の名も、子として伝わりますが、諸説あり定かではありません。

ちなみに、全国で十河さんと言う名前の3割ほどが、香川県に存在しています。

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