十河一存とは 十河城主となり武勇を発揮し三好家に貢献した鬼十河

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十河一存

十河城主・十河景滋(そごう-かげしげ)は、管領・細川家に仕える讃岐の国人でした。
1530年に、嫡子・十河金光が早世しすると、仲が良かった三好長慶に相談し、三好家より養子を迎えることになりました。
その養子として送られたのが、十河一存となります。

十河一存

十河一存(そごう-かずまさ/そごう-かずなが)(三好長正)は、1532年に三好元長の4男として阿波・勝瑞城にて生まれました。
生まれた時、父・三好元長は細川晴元との政争に敗れて、既に享年32で堺・顕本寺にて自害していた為、父の顔を知らずに育ちました。

兄に三好長慶、三好実休安宅冬康、弟に野口冬長がいます。


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そして、兄の命を受けて、養子として十河城に入った訳ですが、時期はよくわかっていませんが、三好家の家臣として行動することになります。

1549年6月、父の仇である三好政長と摂津・江口の戦いにて勝利に貢献し、細川晴元の政権が崩壊させ、将軍・足利義輝を近江へ追放しています。
これにより、畿内は兄・三好長慶の政権となり、1550年、東山の戦いでも、京都復帰を狙う細川晴元を阻止しました。

また、1553年6月には、阿波・見性寺事件の際に、次兄・三好実休を助けて細川持隆の殺害にも協力しました。

1558年、北白川の戦いに参戦し、1560年には畠山高政との戦いで活躍しています。
そのため、三好長慶より評価を受けて、十河一存は岸和田城主となりました。

その後も兄・三好長慶をよく補佐し、家臣からの信頼も厚かったほか、勇猛果敢に武勇を発揮し、勇猛で容貌も鬼のようであったところから「鬼十河」「夜叉十河」の名を近畿・四国に轟かせています。

しかし、一説にはガンを患ったともされ、病気療養の為に有馬温泉に向かう途中とも、子・松浦萬満の後見のために向かおうとしたとも、色々と説はありますが「落馬」したと言います。
その傷が元ともされますが、三好四兄弟では一番下であった十河一存が一番最初に、1561年3月18日死去しました。享年30。
讃岐・十河城にて没したとの説もあり、称念寺に墓もあります。


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正室は九条稙通の娘で、1549年に十河重存(そごう-しげまさ)が生まれています。
しかし、幼少であったため伯父の三好長慶が1563年に引き取り、十河重存は三好義継(みよし-よしつぐ)と改名し、のち三好氏本家の事実上の最後の当主となりました。

なお、十河一存には松浦信輝と、十河存之と言う子もいました。

松浦信輝(まつら-のぶてる)は、父の生前中に、岸和田城の松浦氏を継承したようで、そのまま岸和田城主に収まった模様です。
十河存之(そごう-まさゆき)は庶子であったとされ、十河家の家督を継ぐことは許さなかったようです。

このような経緯があったため、十河家の家督は、三好実休の次男・三好存保が、亡き十河一存の養子という形で十河家を継ぎました。

ちなみに百貨店の「そごう」は、十合さんが江戸時代の天保年間に大坂で創業したお店で、鬼十河とは関係ないとの事です。

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