三好義継の解説 三好家滅亡を分かりやすく3分で

三好義継

三好義継(みよし-よしつぐ)は、戦国時代の武将で、1549年、十河一存の子として生まれました。
母は、関白・九条稙通の娘(九条稙通の養女?)です。
父・十河一存(そごう-かずまさ)は、阿波の戦国大名・三好元長の4男で、兄・三好長慶の命を受けて、讃岐・十河城に入り、十河氏を継承していました。
1561年4月、父・十河一存が急死します。享年30。

この時、十河義継は、まだ13歳前後であったため、三好長慶が養育します。
その後、1563年、その三好長慶の嫡男・三好義興が芥川山城にて病死(享年22)してしまいます。
そのため、母の実家である九条家の後押しもあり、十河義継が、本家「三好家」の家督継承者となって、三好義継と称しました。


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ところが養父・三好長慶の天下も長くは続かず、頼りになる安宅冬康を粛清したのち、1564年7月、飯盛山城にて死去します。(享年43)

こうして、三好義継が三好家の家督を継ぎ、三好実休の次男が十河存保となって、十河氏を継ぎました。
しかし、三好義継は、まだ若年だったため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸三好政康岩成友通)が、後見役となり、三好家の政治を行っています。

特に、三好家の重臣だった松永久秀は、独自の行動をはじめますが、三好義継もその松永氏に同調するようになりました。
1565年、三好義継は三好三人衆や松永久通(松永久秀の子)と共に、二条御所を襲撃し、室町幕府の第13代将軍・足利義輝を殺害しています。

その後、多聞山城主・松永久秀が、三好三人衆と対立するようになると、さすがに三好義継も、三好三人衆や篠原長房らと行動を共にし、更には筒井城主・筒井順慶と結びました。
しかし、1567年、東大寺大仏殿の戦いで、松永勢に敗れると、三好義継は、松永久秀と組みます。
そして、1568年、阿波・撫養城足利義栄(阿波公方)を、第14代将軍に据えます。


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しかし、三好三人衆と松永久秀の抗争が続いていたことから、将軍・足利義栄は、摂津・富田の総持寺や、普門寺城から、先の京に入ることはできずにいました。
そんな中、岐阜城主・織田信長が、明智光秀などに促され、足利義昭を奉じて上洛の動きを見せると、これに松永久秀も協力します。
観音寺城の戦いで六角氏を排除した織田勢は、三好三人衆のひとりである岩成友通が籠城した、勝竜寺城もまたたくまに落としたため、三好三人衆と将軍・足利義栄は、阿波へと落ちました。

その後、河内・若江城を任された三好義継は、松永久秀と共に、織田信長に従っていましたが、1571年頃から、松永久秀と共に、織田家に反抗する側へと転じています。
しかし、1573年、武田信玄が死去したあと、織田勢は反撃を開始し、15代将軍になっていた足利義昭も、京都から追放されています。

三好義継は、槙島城(槙嶋城)から若江に逃れてきた足利義昭を保護したため、佐久間信盛らの織田勢が、若江城を攻撃しています。(若江城の戦い)
この時、多羅尾右近、池田丹後守ら若江三人衆など三好家の重臣も寝返り、三好義継は妻(足利義晴の娘、足利義昭の妹)や子の三好仙千代と自刃しました。


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三好三人衆も壊滅し、三好義継の死により、近畿などで強大な勢力を誇った、戦国大名としての三好家は滅亡しました。
松永久秀は織田家に降伏しましたが、のち、再び信貴山城にて、謀反を起こします。

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