松永久通の解説 永禄の変で足利義輝を討った真の黒幕?

松永久通

松永久通(まつなが-ひさみち)は、三好長慶の家臣であった松永久秀の嫡男です。
父の松永久秀と言えば、戦国の極悪人とも言われる有名人ですが、その息子の松永久通をご存じの方は少ないのなかという印象です。

松永久通とは一体どのような武将だったのか?
実は室町幕府第13代将軍 足利義輝の運命を決定づけた張本人であったと言われているのです。

松永久通と永禄の変

松永久通は、天文12年(1543年)に、松永久秀の嫡男として生を受けました。
母親は分かっていません。
若かりし頃は父と共に三好長慶に仕え、永禄5年(1562年)には家督を譲られています。
それと当時に、松永氏の居城であった多聞山城主となっています。


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それから約3年後の永禄8年(1565年)に発生したのが『永禄の変』と言われる大事件です。
永禄の変とは、室町幕府の将軍であった足利義輝を、三好家の軍勢が襲撃した事件です。

ことの経緯は、将軍権威を復活させたかった足利義輝に対し、京都で力を持っていた三好家との間に軋轢が生じたことに端を発します。
そんな中、足利義輝は三好長慶亡き後に実権を握っていた三好三人衆(三好長逸三好宗渭岩成友通)と松永父子を排除しようと画策したのですが、逆に三好の軍勢に京都の二条御所を襲撃され、足利義輝は討ち取られてしまったのです。
なお、足利義輝は剣豪将軍と渾名された豪傑で、迫りくる刺客を見事な刀さばきで次々と斬り伏せたものの、多勢に無勢で壮絶な最期を遂げたと伝わっています。

これが「永禄の変」と呼ばれる事件の大まかな内容です。

この永禄の変なのですが、三好三人衆と松永久秀が黒幕であると言われることが多いです。
しかし、松永久秀は直接的な関わりは無く、実は嫡男の松永久通が積極的に関わっていたのではないかと言われています。将軍暗殺は、松永久秀の極悪人っぷりを代表するエピソードですが、実際は三好三人衆と松永久通の陰謀によるものだというの有力視されています。

永禄の変後の松永久通

ところで、永禄の変の首謀者であった松永久通は、その後どのような人生を歩んだのでしょうか?
足利義輝を亡き者にはしたものの、今後は松永久秀と三好三人衆の間で、三好家の主権を巡って内紛が起こりました。
松永久通は、当然父の久秀に従っていました。

この最中に、織田信長足利義昭を奉じて上洛。
松永父子は織田家に臣従しました。

後に織田信長と足利義昭が不仲になると、義昭が周辺大名に呼びかけ信長包囲網を形成。
天正元年(1573年)、松永久通は父と共に、そして三好家一門である三好義継とともに織田家を裏切りましたが、居城の多聞山城を包囲され、あえなく降伏しました。


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それから約4年後の天正5年(1577年)。
父の松永久秀が再び織田信長に反旗を翻しました。
松永久通も父に従って一緒に謀反を起こしました。
しかし、松永久秀の居城 信貴山城は織田軍に包囲され、久秀は名器 平蜘蛛茶釜に火薬を詰めて天守閣もろとも大爆死を遂げたと言われています。
この時、久通も自害して果てました。また、信貴山城から脱出し、落ち延びる途中で雑兵に討ち取られたとも言われています。

(寄稿)拓麻呂

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