安宅冬康とは 淡路水軍を率いて三好家を助けた人望ある武将

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安宅冬康

安宅冬康(あたぎ-ふゆやす)は、管領・細川晴元の重臣・三好元長の3男として1528年に生まれました。
兄に、三好長慶三好実休、弟には十河一存、野口冬長がいます。
安宅冬康が5歳のときである1532年、同族である三好政長や木沢長政らの讒言を受けた細川晴元の差し金により、飯盛山城を攻撃中の父・三好元長が、石山本願寺・一向一揆の数万に背後から襲撃します。

足利義維を逃がすも、三好元長は自害して果てました。享年32。

このとき、母(慶春院殿南岸智英大姉)と長兄の三好長慶(10歳)らは、堺衆の機転により阿波へと逃れました。


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その後、一向一揆は拡大し、細川晴元も制御できなくなったところ、兄・三好長慶は、1534年に13歳でありながら、関係が悪化していた細川晴元と本願寺の講和に尽力します。
この功績が認められて、兄・三好長慶ら三好家は、再び細川家の重臣として活躍するようになりました。

そして、1536年、9歳になった安宅冬康は、淡路の海賊衆である洲本城主・安宅治興の養子に送り込んだのです。
こうして、安宅冬康と称し、安宅家の家督を継いだわけですが、その時期は不明です。

いずれにせよ、次兄で勝端城に入った三好実休、弟で十河城主となった十河一存らと共に、兄の三好長慶を助けるのですが、淡路水軍を率いたのが安宅冬康ということになります。

しかし、1561年に、弟の十河一存が急死すると、1562年には三好実休(三好義賢)も、久米田の戦いにて討死します。

その後も、兄・三好長慶を補佐して再起をはかり勝利もしていますが、安宅冬康は和歌・堺流及び飛鳥井流の書を嗜み、また、茶の湯を好んだようで、思慮深い性格、そして人望も厚かったと言います。

しかし、永禄7年(1564年)5月9日に、三好長慶の本拠地・飯盛山城に呼び出された安宅冬康は、謀反を疑われて自害させられました。享年37。
もちろん、諸説ありますが、多くの民衆は三好家で力をつけていた松永久秀の策略があったと信じて疑わなかったと言う記録もあります。
ただし、あとで無実を知った三好長慶はかなり悔やんだようで、あとをおうかのように、2ヶ月後の7月4日に病死しました。(享年43)

なお、安宅家の家督は子の安宅信康(あたぎ-のぶやす)が継ぎました。


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その後、三好三人衆(三好長逸三好政康岩成友通)が三好家を支えますが、やがて対立し三好政権は崩壊します。

安宅信康は1572年に織田信長に降伏し、淡路水軍は織田水軍のひとつに組み込まれました。
1577年、石山本願寺を支援しようとした、毛利水軍との木津川口の戦いにも参戦しています。

1578年に30歳で死去したあとは、弟の安宅清康(あたぎ-きよやす)が継承しますが、毛利輝元に内応して織田家から離れる動きを見せます。
そのため、天正9年(1581年)に羽柴秀吉、池田元助ら攻撃を受け、洲本城は開城・降伏しました。

一度は所領安堵となりましたが、最後には所領没収となり洲本城は仙石秀久に与えられます。
紀伊に追放された安宅清康は同年の1581年に死去したとされます。

ただし、別の説では、安宅氏の家督は安宅冬康の嫡男とされる安宅神太郎がついで、その没後は安宅冬康の兄・三好実休の3男である安宅神五郎が継承したともされており、安宅信康と安宅清康は存在しなかったともされます。

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