木沢長政の解説 権謀術数を駆使し天下も狙えた三好長慶・松永久秀の下剋上の先輩

木沢長政




木沢長政(きざわ-ながまさ)は、戦国時代の武将で、河内・山城南部の守護代を務めました。
畿内で下剋上をした人物といえば、三好長慶松永久秀などを連想しますがこの両名より早い時期に下剋上を体現し、畿内制圧に近づいたのが木沢 長政です。

名家:畠山家に仕えながら、細川家や本願寺などの宗教勢力を手玉に取り、時には結び、時には反目しながら主君を凌ぐ権力を手に入れます。

権謀術数を駆使して畿内で一大勢力を築いた武将のご紹介です。

総州畠山家の被官でありながら細川家に接近

<守護 畠山家>

木沢長政の生年、畠山家に仕えるまでの経歴ははっきりしていません。
畠山家は、足利将軍家と先祖が同じであるため管領に就くことができる家柄でした。
しかし、応仁の乱の端緒とも言われる畠山義就と畠山政長の家督争いをきっかけに分裂。
応仁の乱が終結しても、畠山総州家(畠山義就)・畠山尾州家(畠山政長)の2家に分かれたまま反目は続きました。
木沢長政が仕えたのは、畠山総州家の5代目・畠山義堯(はたけやまよしたか)です。


細川晴元に接近>

このころ京都では、細川家の家督争い(細川高国・細川晴元)が繰り広げられていました。
大永7年(1527年)、細川晴元が政権を奪取し足利義維(あしかがよしつな)を擁立して堺幕府を発足。
その傘下に畠山総州家も入ります。
堺幕府は5年ほど続きますが、木沢長政がこの間に自身の権力の拡充を狙い細川晴元に接近したと考えられています。

同年、細川晴元の政敵・細川高国が再起を図り京都を狙うようになります。
この事態に対し、木沢長政は京都の防衛を任されました。
しかし、享禄4年(1531年)3月に細川高国軍が京都に迫ると突如撤退してしまいます。
その後、大物崩れにより細川高国の勢力が滅んだ後に再び現れ、細川高国に協力した細川尹賢を討った功績を手土産に再び細川晴元の信用を得るようになります。
自身の身に関する危機回避や、タイミングを逃さない権力への取り入り方など、木沢長政の巧みな世渡りの能力が垣間見えます。


■権謀術数を駆使して勢力拡大

<主君を裏切り細川家での出世を狙う(政敵を讒言)>

細川高国の死後、堺幕府の政権運営の方向性の違いから細川晴元と畠山義堯・三好元長らの間に不和が生じます。
この状況下の中、畠山家の家臣にも関わらず木沢長政は細川晴元に接近。
主君の畠山義堯や三好元長から危険視されるようになります。

細川家での出世を目論む木沢長政は、三好元長を失脚させるため細川晴元に讒言をするようになります。
木沢長政と三好元長の対立は決定的になり、三好元長・畠山義堯は手を組み木沢長政の排斥を計画します。
一方、木沢長政も三好元長を敵視する三好政長と結託。
以下のような対決の構図ができあがります。

(木沢長政・三好政長)×(畠山義堯・三好元長)

<飯盛城の戦い(細川晴元の下で権力を拡大)>

享禄5年(1532年)、畠山義堯・三好元長連合軍が木沢長政の居城・飯盛城に攻め込みます。
数に劣る木沢長政は苦戦をしいられたため、細川晴元に援軍を要請。
木沢家が没落し畠山家・三好家の勢力が強まることを警戒した細川晴元は、援軍を本願寺証如に要請します。
本願寺(一向宗)としても「政権の中枢にいる三好元長が法華宗の信者であり、庇護者であった」ことが目障りだったため参戦を承諾。

本願寺証如は摂津、河内、和泉から数万人の信者を兵として動員。
飯盛城を包囲していた畠山義堯・三好元長の連合軍に背後から襲いかかります。
合戦の優劣は逆転し、混乱のなか畠山義堯は自害。
三好元長は和泉の顕本寺まで逃げますが一向一揆に包囲されてこちらも自害して果てます。
このように木沢長政は、政敵の排除に成功し細川晴元の下で権力を増していきます。


<本願寺勢力を武力で鎮圧(支援勢力への攻撃)>

本願寺の支援のおかげ木沢長政は権力を確立しました。
しかし本願寺勢力の武力行使に収拾がつかなくなっており、一向一揆は大和の興福寺を攻撃。
宗教戦争の色合いを帯びてきました。

細川晴元は、木沢長政に一向一揆の鎮圧を命じます。
木沢長政は、本願寺と敵対する京都の法華宗を扇動。
一向宗、法華宗で争いをさせ双方の武力を削ることに成功します。
このようにして邪魔になる勢力を畿内から排除していきました。

一方で、天文3年(1534年)に、三好元長の子・三好長慶との和睦を仲介し三好家を再び傘下に納めることに成功しています。
三好長慶は三好元長の子であるので、細川晴元、木沢長政は父の仇です。
・三好長慶を利用したい(細川、木沢)
・仇を討つために力をつけたい(三好)
というように双方の利害が一致したため、このような仕官が実現したと言われています。

<主家・畠山家の権力を事実上掌握(下剋上成る)>

畠山義堯の死後、総州畠山家の当主は子の畠山在氏でしたが、実権は木沢長政が握っていました。
同時期、片割れの尾州畠山家も重臣の遊佐長教が実権を握っていました。
天文7年(1538年)には、両畠山家の和睦を成立させ、総州畠山家、尾州畠山家を木沢長政と遊佐長教が共同で統治することになりました。
ここに、木沢長政は河内を中心に摂河泉への影響力を強め、大和への進出も視野に入れその国境に信貴山城と二上山城を築城し両国に睨みをきかせます。


■太平寺合戦(討死)

<幕府への反抗勢力となる>

天文6年(1537年)に管領となり権力を握っていた細川晴元ですが、家督相続で争った細川高国の後継と称する細川氏綱やそれに同調する勢力があり、盤石というわけではありませんでした。

天文10年(1541年)、細川氏綱との関係が疑われる摂津・一庫城の塩川政年の討伐を三好長慶に命じます。
摂津の国人たちは「次は自分が討伐の対象になるのでは」と恐れをいだき、塩川政年への攻撃を抗議します。
木沢長政はこれを受け三好長慶へ兵を向けます(細川晴元のもとで頭角を現していた三好長慶を警戒しての動きだったとも)。
三好長慶は木沢長政の出兵を察知し越水城に撤退。
木沢長政はそのまま京都へ兵を向け、足利義晴と細川晴元に三好長慶の排除を訴えました。
しかし、両者は京都を脱出し、木沢長政の勝手な行動に憤っていたため逆に追討令をだします。
ここに至り、木沢長政は幕府の敵対勢力となってしまいました。

<太平寺の戦い>

幕府の敵対勢力となったことで、多くの味方が木沢長政のもとを去り、影響力をもつ範囲は、河内と大和の一部に限定されてしまいました。

天文11年(1542年)、淀川を挟んで幕府勢力とにらみ合っていましたが、味方であったはずの尾州畠山家・遊佐長教までもが敵となります。
これを受けて、淀川から陣を払い総州畠山家の影響力の残る河内中部にある太平寺に陣を展開し、敵を迎え撃つ姿勢をとりました。

寄せ手の遊佐軍と互角に戦闘を繰り広げる中、援軍があらわれます。
飯盛城にいる総州畠山家(名目上の主君・畠山在氏)からの援軍かと思いきや、細川晴元に命を受けた三好長慶(敵側)の軍勢でした。
三好長慶は父の仇である木沢長政の軍に猛攻を加えます。
木沢長政の軍はこれを受けて士気が崩壊し軍は混乱。
そのまま北へ逃走しますが、遊佐・三好連合軍の激しい追撃にあい、遂に遊佐軍によって討ち取られたといわれています。

<その後>

木沢長政と共に一族の多くが戦死したとされていますが、子とみられる木沢孫四郎相政(後に山城守)、その異母兄が三好政長らの仲介で晴元の配下に復帰したとされています。

■関連史跡

*伝木沢長政墓
*所在地:大阪府柏原市安堂町19-19

現在、太平寺という寺院は存在せず地名だけが残っています。
その太平寺地区の共同墓地に木沢長政の墓とされる五輪塔があります。


*信貴山城
*所在地:奈良県生駒郡平群町大字信貴山1308

信貴山城と言えば松永弾正久秀のイメージがありますが、もともとは木沢長政が河内・大和を統治する上での重要拠点として位置付けていました。

(寄稿)渡辺綱

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渡辺綱

投稿者プロフィール

日本史を中心として、東アジア史全般(中国、朝鮮、満州)に興味あり。 
好きな作家:司馬遼太郎、黒岩重吾、陳舜臣、海音寺潮五郎、今東光、
      吉川英治、山岡荘八、宮城谷昌光

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