藤原国経の解説~栄達するも美貌の妻を失った藤原北家の公卿~

藤原国経

藤原国経とは

本年(2024年)最初の投稿は、お正月に起きた悲喜こもごもの事件の中心人物になった平安貴族を紹介致します。その主人公こそが、藤原国経(ふじわらのくにつね)です。

国経は天長5年(828年)、藤原北家の貴族・藤原長良と難波淵子の長男として生まれました。主な弟妹には藤原時平の父に当たる基経、清和天皇の女御である高子などがいます。この高子は在原業平と駆け落ちするも身柄を奪還されたことが『伊勢物語』などで知られていますが、鬼が喰い殺したとして奪い返した彼女の兄の一人が、この国経だと言われています。


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国経が歴史の表舞台に登場するのは天安2年(858年)に蔵人に任ぜられたのち、翌年には従五位下を賜りました。

貞観3年(861年)に備後権介になったのを皮切りに貞観年間、国経は多様な官職を遍歴し、清和天皇のもとで着実に昇進して活躍します。中でも彼が栄達を極めたのは甥に当たる貞明皇太子が即位し、陽成天皇になって以降です。貞観19年(877年)には従四位下・蔵人頭になり、その2年後に従四位上に叙任され、元慶6年(882年)には正四位下・参議になり、公卿の列に入ったのでした。

藤原北家の重鎮として重きをなす

従二位の官位を賜った父・長良の長男に恥じぬ昇進を続け、妹でもある高子皇太后に議政官と皇后宮大夫を兼任して仕え、栄誉ある地位を得た国経でしたが、身近なところに驚異的な存在が勃興していました。それは他でもない弟の基経で、太政大臣であった藤原良房の養子になっていた彼に比べると、後ろ盾のなさもあってか国経の昇進は基経よりも遅れていました。

しかし、その実力者である基経も寛平3年(891年)に亡くなってしまい、その3年後に新羅の入寇が起こると国経は太宰権帥を拝命し、同年には従三位・権中納言になります。寛平9年(897年)には中納言、延喜2年(902年)に大納言に叙任され、翌年には正三位にまで昇進しました。それから5年後の延喜8年(908年)、藤原国経は81年の人生に幕を下ろします。

甥に若妻を奪われる

ここまで紹介したのは史実における藤原国経の来歴ですが、彼を著名な人物になさしめたのが、『今昔物語集』に収録されている逸話です。国経が80歳近い年の頃、彼は在原業平の孫娘に当たる20歳を過ぎたばかりの女性をめとり、その美しさは平中の異名で当代きっての色男との呼び声も高い平貞文も憧れるほどの評判になっていました。

貞文から彼女の話を聞いた時平は一計を案じ、亡父の兄である国経を大事に扱い、良い気分にさせた挙げ句、正月に国経邸へ参上すると申し出ます。それに喜んだ国経は時平を手厚くもてなし、馬と筝(楽器)を引き出物に渡しました。すると時平は、
「伯父様、酔ったついでに申し上げます。今宵、僕が伺った事をそんなに嬉しく思って下さるのであれば、心尽くしの特別な引き出物を頂けますでしょうか?」
と伯父にお願いします。

それに舞い上がったのが泥酔していた国経で、
「私は連れ添っておるこの女人を至宝と思うておりまする。たとえ大臣でもこれほどの宝はお持ちでないでしょう…このじいには、斯様な妻がおるのでござる。彼女を時平殿への引き出物に致しましょうぞ」
と申し出て、妻を時平に与えてしまったのです。更には、
「おい婆さんや。お前、私を忘れるんじゃないぞ!」
と言うなど、失態を晒してしまいました。

こうして時平はまんまと美しい姫を我が物にし、彼女も枯れた老人である国経に不満があって時平に惚れ込んでいたため、若い2人はめでたくゴールインする一方で国経は無念の思いに打ちひしがれる…として物語は幕を下ろします。


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文学の世界では前述した業平から妹を奪い返す手柄をあげた国経ですが、業平の孫をめとるものの彼女は甥に奪われる…と言う略奪愛に彩られた人物と言っても過言ではないと筆者は思います。この説話は多くの作家によって作品化され、中でも有名なのが谷崎潤一郎さんによる『少将滋幹の母』で、本人が如何に思うかは不明ですが、日本文学がある限り藤原国経の人間味ある生き様は語り継がれていくことでしょう。

参考文献、サイト(敬称略)

少将滋幹の母 谷崎潤一郎

斎宮歴史博物館

もろさわようこの今昔物語集 集英社 もろさわようこ
新編 日本古典文学全集・今昔物語集1~4  小学館 馬淵和夫・稲垣泰一・国東文麿
今昔物語上・下 中央公論社 水木しげる

(寄稿)太田

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