5分で分かる藤原時平 天神様のライバルは才智に長けた藤原のプリンス

藤原時平




藤原時平(ふじわらのときひら)と聞いて思い浮かぶのは、どのようなことでしょうか。今も根強いのが、天神様として親しまれる菅原道真大宰府に追い払った悪人と言うイメージですが、本稿では伝説による潤色を除いた時平像を紐解いていきます。

藤原時平は貞観13年(871年)、藤原北家の実力者であった藤原基経と、人康親王の娘との間に長男として生を受けました。時平が歴史の表舞台に登場するのは、仁和2年(886年)に16歳で元服し、正五位下を賜った時のことです。その式は内裏の仁寿殿で執り行われ、橘広相が起草した告文を時の帝・光孝天皇が清書して加冠役を天皇自らが行う、破格のものであったと言います。

翌年の正月には従四位下、右近衛権中将に叙され、同年8月には宇多天皇の即位と共に蔵人頭に補され、時平は順調に出世街道を歩み始めます。寛平2年(890年)には従四位上、従三位の官位を賜り、20歳の若さで公卿に登り詰めました。寛平3年(891年)に父の基経が亡くなりますが、その2年後に敦仁親王(のちの醍醐天皇)が東宮になると東宮大夫を兼任するなど、時平の権勢は揺らぎないものとなっていました。


寛平9年(897年)に宇多天皇の譲位と共に皇太子が醍醐天皇として即位すると、天皇は父の上皇から賜った『寛平御遺誡』で“功臣の末裔”“年若いが政理に熟知した”と評された時平を重用しました。その時、時平と並んで天皇の補佐に当たったのが、菅原道真です。

若きエリート政治家時平と学者の身から登り詰めた道真のコンビは、当初こそ贈物、詩歌を交わす仲で、時平自身は道真の文才に敬意を表していましたが、徐々に確執が生じます。それが結実したのが昌泰4年(901年)、時平によって道真が大宰府へと追われた昌泰の変です。

一般には時平が陰謀を企てたかのように見られていますが、背景は極めて複雑であり、皇位継承を巡って時平を信頼する醍醐帝と宇多法皇との対立、時平が師事した学者・大蔵善行と道真それぞれの門下生の衝突、道真に反感を持つ人々の意向があったりと、当時の貴族社会の問題が見え隠れした事件でもあったと言います。

こうして、道真を太宰権帥へと追いやって勝利した時平は精力的に政治改革を行い、延喜2年(902年)に初の荘園整理令を出し、3年後の延喜5年(905年)には『延喜式』の編纂を行うなど、天皇による善政が行われた御代として後世称えられた、延喜の治を実現しました。しかし、正二位まで登り詰めた時平の栄光も長くは続きませんでした。

『延喜式』の編纂を始めてから4年後、藤原時平は突如として39歳の若さで世を去ります。彼の死因は時平の策略で追放された道真の怨霊が祟ったとされ、道真の子孫が「時平に讒訴された」としたのもあり、時平は天神様こと菅原道真を迫害した悪人として名を残すこととなったのです。

事実、『北野天神縁起絵巻』や御伽草子、歌舞伎『天満菜種御供』など、時平は道真を扱った諸作品で悪役として知られています。一方、『大鏡』で醍醐帝と共謀して皆の贅沢を戒めた話、役人の放屁で笑いが止まらなくなった話などが記録され、美女を巡ってトラブルを起こしたことが『今昔物語』や『寛平御遺誡』に記されるなど、当代随一の優れた政治手腕と智謀を持ち、人間味のある人物であったというのも、時平と言う人物の一面であることに変わりはありません。


学問の神となった偉人・菅原道真を追い落とした悪しき部分にのみ目を向けられがちな藤原時平ですが、資料を読むと彼もまた道真に負けず劣らずの人間的魅力を兼ね備えた当代きっての実力者で、本項がその一助となれば幸いです。

(寄稿)太田

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