篠原長房~文武に優れ三好家を支えた高名な武将

篠原長房

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篠原長房(しのはら-ながふさ)は、三好氏の宿老で阿波・木津城主・篠原長政の嫡男ですが、生年は不詳です。
父は三好長慶の傅役を務めるなど、親子で三好元長に仕えたようで、篠原長房は三好長慶の弟・三好実休(三好義賢)の重臣になり、上桜城を任されました。

1553年に、三好実休が阿波の守護・細川持隆を殺害して勝端城に入ると、讃岐の香川之景を攻めるなど、文武に秀でた篠原長房は三好家の合戦にて活躍します。

1559年には、三好家と一向宗の絆を高めて、根来寺などに対抗するため、本願寺蓮如の孫にあたる摂津富田の教行寺兼詮の娘(名前不明)を継室に迎えています。


その後も、三好実休に従って和泉など各地を転戦します。
そして、1562年3月、久米田の戦いでは篠原長房が先陣を担当しています。
しかし、手薄となった本陣を襲われて、主君・三好実休が根来寺・鉄砲衆の狙撃により討ち死にしました。
この時、篠原長房は残兵をまとめ戦場から見事に徳島へと退却しています。
そして、三好実休の兄・三好長慶の指揮下にて、三好実休の弟の・安宅冬康と共に教興寺の戦いで畠山高政を破り、畠山家を河内の支配権を三好家のものとしています。
篠原長房は剃髪し「岫雲斎怒朴」と号しました。

なお、三好実休の亡きあと、勝端城では三好実休の長男・三好長治(みよし-ながはる)が城主となっています。
しかし、三好長治はまだ8歳だったため、板西城主・赤沢宗伝や、篠原長房の弟・篠原自遁と共に補佐して、阿波・三好家の政務、軍を出せば総大将として取り仕切りました。
特に篠原長房は三好家の分国法「新加制式」を制定したと言われており、三好家臣の中でも中心となって活躍しています。
1564年に、三好長慶が死去すると、あとのことを三好長逸・松永久秀らと相談して帰国しました。

しかし、三好家は内紛となり、1566年6月、足利義栄を擁立し三好長治・細川真之(細川持隆の子、三好長治の異父兄)を奉じて、篠原長房は四国勢を率いて畿内に上陸しました。
こうして、主君・三好長房は三好三人衆に協力して、松永久秀の摂津・越水城を奪っています。
そして、信貴山城の戦いにて、細川藤賢を撃破しました。
また、1570年には娘が雨滝城主・安富盛定の正室になっており、更なる三好家の勢力拡大にも尽力しています。

キリスト教にはなっていませんが、キリシタンに理解を示しており、ルイス・フロイスの入京を斡旋したり、松永久秀に追放された宣教師を保護したりもしています。
そして、ルイス・フロイスの「フロイス日本史」に、篠原長房のことが記載されています。

この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的(権力を有する)執政であった。

このように、三好三人衆に次ぐ地位でもあった篠原長房は、織田信長足利義昭を報じて上洛すると、三好三人衆や本願寺顕如らと組して対抗しました。
野田・福島の戦いでは織田信長と和睦しましたが、以後も織田家には対抗姿勢をとっています。

篠原長房の弟・篠原自遁(しのはら-じとん)は、木津城主となっていました。
しかし、絶世の美女と評され、細川持隆の側室から、三好実休の妻となって三好長治、十河存保の2子を設けていた「小少将」が、三好実休の亡きあとには弟の篠原自遁と相通じあう仲となっていたのです。

弟には何回も女に溺れることのないよう、諫めたようですが、三好実休と小少将の子である三好長治・十河存保に遠慮したのか、篠原長房は上桜城に籠って出仕しなくなったようです。
しかし、逆に謀反の疑いを掛けられたようで、1573年5月、三好長治・細川真之らの軍勢が上桜城を攻めました。

この時、秋月城主となっていた、篠原長房の長男・篠原長重(しのはら-ながしげ)も上桜城に駆け付けたようです。


包囲されると約2ヶ月の籠城も兵糧が乏しくなり、篠原長房らは夜陰に紛れて城から麓に降りると、敵陣に総攻撃しました。
この上桜城の戦いにて、子の篠原長重は、果敢にも敵陣に突っ込み、讃岐香西氏の家臣・植松資久に討ち取られました。享年19。
篠原長房も、奮戦しますが討死しました。

なお、篠原長房の妻(摂津教行寺兼詮の娘)と次男・篠原新次郎、三男・篠原義房ら子供らは、妻の里の教行寺を頼って逃れています。
のち、紀伊に移ったあと、豊臣秀吉の用人として仕えたとも伝わるようです。

篠原長房の墓、篠原長重の墓

上記は篠原長房父子の墓となります。
伊沢城跡近くにある伊澤神社の東側、県道沿いにありましたが、これは篠原氏に協力した伊沢綱俊かそのご子孫が築いたものと推測されます。

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