小少将(こしょうしょう)~四国の大名家を渡り歩いた謎多き美女に迫ってみた

小少将

小少将(こしょうしょう)は女性の名前であるが「通称」であり、本当の名前ではありません。
誤解の無いように申し上げておく必要があるのですが、日本の歴史に登場する小少将と言う女性は、通称だけに8名くらいはおります。
要するに、よく使用された「あだ名」と言う事になるのですが、その中でも「美女」として知られる、岡本牧西の娘とされる「小少将」を今回は取り上げさせて頂きます。


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まず、佐野山陰著「阿波志」や「三好記」によると、小少将は岡本牧西の娘とあります。

岡本牧西と細川持隆

岡本牧西(おかもと-ぼくさい)は、安房・勝瑞城主である三好義賢の家臣となりますが、最初からではありません。

天文年間(1532年~1555年)に、岡本牧西は100貫にて阿波・西条城(西条東城)主を務めています。
この頃の名前は、岡本清宗(岡本美作守清宗)と称しており、阿波守護で勝瑞城主・細川持隆に仕えています。

天文(1532年~1555年)のはじめの頃に、主君・細川持隆(ほそかわ-たかもち)の目に、ひとりの美しい娘の姿が止まりました。
これが、岡本牧西の娘・小少将と言う事になります。

細川持隆には正室として大内義興の娘がおりましたので、小少将は寵愛(ちょうあい)を受けて側室となった次第です。
そして、1538年に、最初の男子となる細川真之(ほそかわ-さねゆき)を産みました。
小少将が、産んだ時の年齢は不明ですが、仮にここでは、14歳としておきたいと思います。

1549年、細川本家となる室町幕府管領・細川晴元三好長慶に敗れると細川家は没落します。
そして、平島公方(ひらじまくぼう)の足利義冬を将軍にしようと京都入りをはかったため、1553年に、反対派の三好長慶の弟・三好義賢(三好実休)が、見性寺にて細川持隆を殺害しました。享年57。
小少将の仮の年齢としては、29歳の時の出来事です。

ただ、細川持隆が殺害される前に、既に小少将は三好実休に通じており、子を宿していたともされます。

三好義賢(三好実休)の継室になる

この結果、小少将の子である細川真之(16歳)が、阿波・細川家の家督を継ぎました。
なお「昔阿波物語」「三好記」などによると、細川家の実権は三好義賢(三好実休)が握っており、細川真之は傀儡(かいらい)として擁立されたとあります。
そして、三好義賢は小少将を強奪して、自分の継室にしたともあります。

要するに、細川家を牛耳るために、三好義賢が細川真之の養父になったとも受け取れますが、すぐの1553年に小少将は三好長治(みよし-ながはる)を産みました。
翌年1554年には、十河存保(そごう-ながやす)、そして、安宅家を継承した安宅神五郎(生年不詳)と、小少将は三好実休との間に3子を儲けたと言う事になります。
小少将は、家中にて大形殿(正室の意味)と呼ばれ、三好義賢からも寵愛を受けたようです。

そのため、小少将の父・岡本清宗(岡本美作守清宗)は、三好実休の家臣として存続しています。
1562年、足利義輝派であった畠山高政・六角義賢と、和泉・久米田の戦いにて、三好義賢(三好実休)が討死すると、多くの家臣が仏門に入ったのと同様に、岡本清宗は岡本入道牧西と改名して主君の死を悼み、岡本牧西と称されるようになったわけです。
この時、小少将の仮年齢は38歳となります。
十河存保は十河一保の養子となって十河城主になりました。

篠原自遁の妻に

その後、小少将は、三好家の木津城主・篠原自遁(しのはら-じとん)の妻として見受けられます。

この時、家督を継いだ三好長治はまだ8歳で、篠原長房、篠原自遁と、板西城主・赤沢宗伝ら三好家の重臣が補佐しました。
特に、篠原自遁の兄とされる上桜城主・篠原長房は、三好家臣団をまとめて分国法「新加制式」を制定したと言われており、三好氏の中心人物として活躍しています。
そのため、宣教師ルイス・フロイスは「長房の権威・権力は三好三人衆さえ凌駕しており、阿波を動かしている」と記しました。

三好記によると、絶世の美女・小少将は1571年に、篠原長房が阿波へ帰国した前後から、篠原自遁と通じあう仲となり、篠原長房を疎んじるようになったとあります。
これは、主君・三好長治の生母を妻にすると言う篠原自遁の行為は、篠原長房にとって自分の立場も悪くしかねないと考えたようです。

これを咎めたため、小少将や三好長治より蟄居を命じられたのか、嫌になって引きこもったのかは不明ですが、篠原長房は上桜城から出ませんでした。
そして、謀反の疑いを掛けられたようで、篠原自遁が三好長治に讒言し、これを信じた三好長治は軍勢を差し向けます。

1573年6月、三好長治(20歳)は、十河存保(21歳)を総大将として細川真之(34歳)ら、小少将の子供たちが、10000にて上桜城を攻め、上桜城の戦いとなりました。
1500の篠原長房は良くしのぎましたが、最後の突撃を敢行して家族を逃がすと討ち取られています。

この戦いのあと、三好家の家臣らは離反が相次ぎ、荒田野の戦い、長宗我部元親による阿波国侵攻を許していくのです。
そして、傀儡であった細川真之もこの機を逃さず、1577年に小笠原成助や、長宗我部元親の助力を得て、三好長治を阿波・荒田野の戦いにて打ち破りました。
三好長治は享年25です。

しかし、三好家の家臣らは、十河城主となっていた十河存保を擁立して、勝瑞城に迎え、十河存保が三好家の実質的な当主となり、織田信長に従属しています。
篠原自遁は、十河存保の三好家相続に反対しており、1578年に合戦で敗れますが、十河存保が勝瑞城へ入城する際には先導役となっています。

その後、1582年、長宗我部元親が阿波へ侵攻した際にも、十河勢として篠原自遁は出陣しています。
しかし、織田信長が本能寺の変で横死したあと、三好家が長曽我部氏と雌雄を決した、中富川の戦いには参じていませんので、長曽我部の軍門に下ったともされています。
その後、阿波・木津城から退いて、淡路へ落ち延びたとも言われています。

ここで、小少将の足跡は不明になったと言うのが、一般的に言われています。
仮の小少将の年齢ですと58歳ですね。

ちなみに、同じく小少将の子とされる、安宅神五郎は水軍を擁する安宅家に養子となって家督を継いだと言われていますが、どの安宅家の武将なのかは、定かではありません。
小少将ん゛最初に産んだ細川真之も、結局は十河存保によって討たれ、阿波・細川家は滅亡しました。(享年44)
のち、十河存保も戸次川の戦いにて討死します。


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長宗我部元親の妻?

なお、長宗我部元親の側室に、小少将と言う女性の名が見られます。
別人ともされますが、同一人物であると言う説もあります。

この長曽我部の小少将は、長宗我部元親の子・長宗我部右近太夫(ちょうそかべ-うこんだいふ)を1583年に産んだとも言われています。
しかし、仮の年齢58歳からしますと、あり得ない話でして、同一人物である可能性は極めて低いと言わざるを得ません。

と言う事で、細川真之、三好長治、十河存保らを産んだ小少将が、その後、長曽我部家に嫁いだとは考えにくいかと存じます。
しかし、再婚を繰り返した小少将は自らの意思で鞍替えしていたともされ、また、男子を3名・4名も産んでいましたら、女の子を何人か出産していてもおかしくはありません。
女の子を産んだとの記録はありませんが、もし、その女の子も美女として育ち、長宗我部元親の目に留まったのであれば?と、推測しますと、長曾我部家で同様に「小少将」と家臣らから称されたと考えてもスムーズなような気がいたします。


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このように、数奇な運命を辿ったとも言える小少将だけに、色々な憶測もあり、自身の魅力で渡り歩く謎多き魔性の烈女・美女として、ゲーム「戦国無双」では、総大将のようなイメージとなっています。
「傾国の美女」もしくは「烈女」、時には「悪女」とも言われる小少将についてでした。

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