本能寺の変と織田信長・明智光秀の関係に迫る





本能寺の変

織田信長は、1582年3月に甲斐の武田勝頼を滅ぼし、天下統一まであと少しと言う段階まで前進していましたが、1582年6月2日に「本能寺の変」が勃発します。
明智光秀織田信長に対して反旗を翻した理由は諸説あり、原因は定かではない。約50もの説があり、明智光秀の動機は本人のみぞ知るものであり、戦国史最大の謎と言えるでしょう。

本能寺は京都での織田信長の滞在施設として建設されたようで、無防備な寺ではなく、1580年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど、防御面にも優れた施設になっていたようです。
要するに、織田信長は京都に滞在する際にも、ある程度の警戒は怠っていなかったのであるが、この夜、本能寺には約100の兵しかいなかったとされます。

本能寺跡

明智光秀の軍勢は諸説ありますが一般的に13000と言われており、明智光秀は織田信長を討ち取るのに十分な力を有していた事は事実なのでしょう。
ただし、時代劇ドラマや映画などで描かれるように、大将である明智光秀が自ら、本能寺の山門前などで、陣頭指揮を執ったと言う史料は見られません。
最近の研究では、本能寺を襲撃した部隊は約2000とされ、重臣である斎藤利三明智秀満が指揮をしたようです。
二条城には、伊勢貞興ら2000が向かいました。
明智光秀は、鳥羽に布陣して全体の指揮と、逃れて来る織田兵などの警戒にあたった模様です。
その他、京の周辺にも、兵を置いて、討ち漏らした場合の対策を講じていたと考えられますので、1万3000の兵は、各地に分散配備されていたと推測されます。


本能寺から200m程離れていた教会のフロイス書簡によると、午前3時頃と言われる時間に、明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入したとあります。
<注釈> 6月2日に御所前で馬揃えをする予定があった為、本能寺の護衛兵は油断した。
そして、織田信長が厠から出て手と顔を清めていたところを、背後から弓矢を放って背中に命中させ、直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智軍の兵達に対して応戦していたが、明智軍の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中したともあります。
その直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害したという内容になっています。

織田信長が考える家臣

他の多くの戦国大名においては、家臣と言えども有力家臣は独立性が高く、同等の身分とも言える家臣団構成が多く見られます。
すなわち、多くの大名は、その家臣の協力を得られて、初めて政権を維持していられると言う傾向がありますが、織田信長の場合、自分で何事も判断・決断し、行動していることから「家臣」に対する考え方、捉え方は独特なものであったと推測します。


織田信長に取って家臣と言うのは、自分の目標・理念達成のための協力者であって、家臣に土地を与えると言う恩賞は、その土地の一時的な織田家の管理責任者になってもらうと言う、言わば「支店長」的な単なる配置であり、土地そのものは織田家の物と言う考え方で、支店長は当然転勤もあり得ると言うような経営方針にあったように感じます。
織田信長が自ら神だと言いだしたと言うのは、外国人で尚且つ宗教人のルイス・フロイスしか言っておらず、他の文献には見られないことから、最近の研究では誤解されていると言う見解が多いです。
明智光秀がなぜ謀反を起こしたかと言うと、はやり、拝領し領内政策も行ってきた愛着ある土地が召し上げられ、新たにこれから占領する土地が与えられることになり、その間、支配地がなくなる・=・お金に困るぞ!と言うのが最大の要因であったと推測致します。

織田信長からしてみれば、単に支店長として派遣しているにすぎないですから、転勤は当たり前です。万が一、一時的にお金が足りないと言う申し出があれば、当然、支援する用意はあったのではと考えます。
安土城を築いたくらいですから、資金には余裕があったはずです。
しかし、明智光秀など、譜代の家臣として長い間、織田信長に接してこず、織田信長と言う人物を深く理解できていなかった新参家臣に取っては、拝領地そのものが自分の存在価値であり、土地は恩賞としてもらい、その土地からの収入で生活・家臣を維持し、土地は永久に自分の物であると言う、古来からある概念から脱却できなかったのではと思います。
人事異動で転勤がある「支店長」と言う立場では無く、明智光秀自身は「地方にある関連会社社長」と言う従来との考え方の違いが「本能寺の変」に繋がったのではないでしょうか?


簡単に言えば、社長(織田信長)と、部下(明智光秀)のコミュニケーション不足です。
織田信長は常に家臣には厳しかったと言うのもありますが、方針などはすべて自分で決める織田信長でしたので、その考え方に、明智光秀は付いていけなかった。
武士を単に辞めたり、最悪でも織田家から離脱して独立したり、他家に与したりすればよかったのですが、それではそのうち、織田信長に攻められて負けるのはわかっています。
そこで、京にいて手薄な織田信長さえどうにかすれば、浴を言えば天下も夢見る事ができ、悪くてもなんとか現在の力を維持できると考えたのでしょう。
もちろん、様々な要因が重なって、謀反と言う事になったのだと存じますが、このような経緯で、織田信長を殺害すると言うクーデターを起こしたのだと考えます。

以上、Wikiなどではわからない本能寺の変でした。
皆様のご意見・ご感想も、ページ下部のコメント欄にお寄せ願えますと幸いです。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • 真田
    • 2017年 6月 10日

    「1582年6月2日に本能寺の変」

    間違ってますよ。本能寺の変は1582年6月21日。6月2日というのは天正10年6月2日のことですね。

    • 高田哲也
    • 2017年 6月 10日

    真田さま、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    新暦ですと6月21日、旧暦では6月2日と言う事で、ご指摘どおりでございます。
    当サイトでの月日は、旧暦での表記を主に用いております。
    年に関しては、和暦はあまり使わないように致しておりますので、このような表記となります。
    以上、ご確認申しあげます。

    • 金子昌訓
    • 2017年 12月 03日

    「本能寺の変」前後に起きた事件の定説は、天正10年の歴史を混迷化させています。拙著kindle版「明智光秀は冤罪だった」で記した説明があの時代を理解できます。

    • 鈴木 智幸
    • 2019年 1月 09日

    明智光秀が織田信長を討った理由説明します。

    あくまでも転生前の記憶なので確証は無いものとする。

    明智光秀が反旗を翻した理由
    ①織田信長に勝とうと想へば何時でも勝てる
    ②真の天下人は •最強はどちらか勝負したかった。又は証明したかった。試したかった!
    ③上記を明智光秀なりに織田信長を理解し超える、又は勝ちを証明する方法が殺害しか無かったものと思い込み自己暗示に駆られ、信長のやり方を理解した上で信長を超えたかった、対等に勝負したかった。自身のプライドが信長の下という立場に耐へられずに殺害に至った!

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