ルイス・フロイス、ヴァリニャーノと黒人・弥助

ルイス・フロイス

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 1532年にリスボンに生まれたルイス・フロイスは、9歳になった1541年、ポルトガルの宮廷に仕えた。
 その後、1548年、16歳でイエズス会に入会し、ポルトガル領インドの首府ゴアに渡航し、聖パウロ学院で学び宣教師となった。

 当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣していたのだ。

 1549年から約2年間、日本で布教活動をしていたフランシスコ・ザビエルが、1552年、種子島、中国の上川島を経てインドに一時帰国。
 この時、ルイス・フロイスは、日本の事を色々と聞き、興味を持ったようだ。

 1563年、31歳のルイスフロイスはいよいよ念願の日本への渡航に成功し、横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸。
 長崎で日本語を勉強したあと、1564年に平戸を発ち、1564年12月29日に京都に到着。
 ガスパル・ヴィレラや、目が不自由な琵琶法師だった日本人修道士ロレンソ了斎らとともに布教活動を行った。

 しかし、宣教師を保護していた将軍・足利義輝が永禄の変で殺害されると、宣教師も三好党らによって京都を追われ、摂津国・堺に避難した
 翌1566年にヴィレラが九州へ布教に行ってからは、ルイスフロイスが京都地区の布教責任者となっている。

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 1569年、将軍・足利義昭を擁立して上洛を果たした織田信長二条城の建築現場で対面。
 既存の仏教界のあり方に織田信長は疑問も感じていた為、ルイス・フロイスは畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に精力的に布教活動を行い多くの信者を獲得した。

 その後は九州において布教活躍をしていたが、1580年にイエズス会の巡察師であるアレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日すると、通訳として各地視察に同行し、大友宗麟高山右近有馬晴信らと会見した他、安土城にて織田信長と謁見している。
 この時、奴隷として連れられていたモザンビーク出身の黒人を織田信長が召抱えたいと希望した為「弥助」と名づけられて織田信長の直臣になっている。
 初めて黒人を見た織田信長が、肌に墨を塗っているのではないかと信用せず、衣服を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったと言う逸話がある。

 1582年2月には、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年使節団「天正遣欧少年使節」が、マカオ・ゴアを経てリスボンに向かう為、長崎を発った。

 1582年6月21日の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇。
 織田信長が死んだ後、弥助は二条御所に行って戦い、明智軍に捕縛された。
 明智光秀は「動物で何も知らず日本人でもない」との理由で命は取らず南蛮寺に送ったとされるが、その後の弥助の消息は不明である。
 なお、戦国時代、白人は奴隷として多数の黒人を日本に連れてきており、日本にいた黒人は弥助だけではない。

 1583年、イエズス会の宣教から一時離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられた。
 以後、文筆に才があったルイス・フロイスは日本各地を巡って見聞を広めて残した著書となった「フロイス日本史」に、外国人から見た戦国時代の日本や織田信長の感想などが細かく記載し、当時の戦国期を研究する為の大変重要な資料の1つになっている

 豊臣秀吉は、当初、イエズス会の布教を許可していたが、清洲会議を経て、柴田勝家を破り天下統一が目前になると、キリスト教の勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年6月19日には伴天連追放令(バテレン追放令・キリスト教追放令)を出すに至り、黒田官兵衛がキリスト教を辞めるなどした。
 その為、ルイス・フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち長崎に滞在。
 豊臣秀吉がキリスト教を禁じたのは、各地の商人・領主が火薬の原料である硝酸などの代金の代わりに、日本人婦女子を奴隷として人身売買したのを阻止する意味も含まれていると考えられている。」

1590年(天正18年)、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見した。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年(文禄4年)に長崎に戻り、1597年(慶長2年)には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日(旧暦5月24日)没した。65歳。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。

 1590年、帰国して来た天正遣欧使節と共にヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第にて豊臣秀吉と会見。
 1592年、ヴァリニャーノと共に一時マカオに渡ったが、1595年、再び長崎に戻り、1597年には「二十六聖人の殉教記録」を文筆活動したのを最後に、1597年5月24日、長崎で没した。65歳。

 ルイス・フロイスが執筆した「日本史」は、あまりにも内容が膨大で記述が長かった為、上司のヴァリニャーノはヨーロッパへ送付することを許可せず、長い間、マカオのイエズス会学院の書庫に放置同然に保管されていた。
 その後、18世紀、ポルトガル政府による海外文書の謄本事業により写本が作成されたが、原稿は1835年、同学院の火災により消失。

 写本は20世紀に入って、リスボンのアジュダ王宮図書館、ポルトガル海外史文書館、フランス・トゥルーズの故サルダ氏の文庫、ポルトガル国立図書館などから断片的に発見され、それらを繋ぎ合わせて復元したのが現在の「日本史」となっている。
 非常に長い文面であるが故に、当時の日本の日常生活などについても、詳しく記載されており、むしろ現代の研究者からすればありがたい書物なのである。

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