高山右近とは
高山右近(たかやま-うこん)は、戦国時代の1552年、三好長慶の重臣・松永久秀に仕えている沢城城主・高山友照(高山ダリヨ)の嫡男として、摂津の国・高山(現在の大阪府豊能郡)で生まれた。
母は洗礼名が分かっており高山マリア。
父・高山友照(高山飛騨守)は、勇猛で教養もあり、領民にも慕われた誠実な武士として知られる。
6歳から沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)で育った高山右近であるが、右近の名は通称で、高山彦五郎とも呼ばれる。
他にも、いくつか、名前があり、高山友祥、高山長房、高山重友と言う名も見られる。
12歳になった1564年、父・高山友照が奈良で、盲目の琵琶法師からイエズス会員になった日本人のロレンソ了斎からキリスト教の話を聞くと感銘を受け、自らが洗礼を受けた。
下記写真は、かつて大阪細川屋敷があった場所に建つ教会の高山右近の像。
のち、イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラを沢城に招き、家族にキリスト教の洗礼を受けさせ、高山右近は高山ユストの洗礼名を得ている。
洗礼名はポルトガル語で「正義の人」を意味するジュストとする説もある。
また、この年、摂津・余野城主である黒田氏(余野高綱?)の家族と家臣53名も、高山友照の勧めでロレンソ修道士から洗礼を受けている。
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しかし、この頃、主家である三好長慶は衰退し始めており、1564年5月9日、松永久秀の讒言を信じて、三好長慶が弟の安宅冬康を居城・飯盛山城で誅殺すると、異常を来たして重病となり、1564年7月4日に病死。
その後、家督を継いだ三好義継を松永久秀と、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が支えた。
しかし、1565年に松永久秀らが、将軍・足利義輝を暗殺すると、三好家内部で、松永久秀と三好三人衆とで主導権争いなり、三好家は急速に衰退。
1568年9月に、織田信長が足利義昭を将軍にして上洛すると、松永久秀はいち早く降伏・恭順し、松永久秀が芥川山城で織田軍に与すると高山友照もそれに従った。
抵抗した三好三人衆は織田信長によって駆逐され、畿内は織田家の支配下となり、摂津は、和田惟政・伊丹親興・池田勝正の3人が治める事になった。
そして、高山友照・高山右近は、高槻城に入った織田家家臣の和田惟政の配下に加わり、芥川山城代となった。
しかし、摂津の3人はやがて対立し、更に荒木村重が侵攻すると、1571年、和田惟政が茨木重朝と連合し、池田家家臣だった荒木村重と中川清秀と戦った白井河原の戦いが起こる。
和田惟政は中川清秀隊の鉄砲射撃を浴びて討死し、茨木重朝・郡宗弘も討死し、荒木村重は直ちに茨木城を奪った。
敗戦した高山友照・高山右近は高槻城に、和田惟政の子・和田惟長らと籠城したが、荒木村重が包囲。
これに、織田信長は佐久間信盛を派遣し、将軍・足利義昭は明智光秀、三渕藤英を向かわせた為、荒木村重は撤退した。
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まだ若年だった和田惟政の子・和田惟長(17歳)が家督を継ぐと、1573年3月、後見人である叔父・和田惟増が荒木村重に通じたとして殺害。
以後、高山友照・高山右近が補佐したが、和田惟長派の家臣は高山親子の殺害を狙った為、高山親子は、既に織田信長の信頼が厚く実力者であった荒木村重に相談すると「殺害される前に殺すべきだ」との進言も受けたと言う。
1573年4月、会議と称して和田惟長が高山親子を誘い出した際に、両者の付添い人を交えて激しい斬り合いとなり、和田惟長は深手を負い家臣に連れられ伏見に逃亡。致命傷を受けていたことから甲賀で亡くなったとされている。
この時、高山右近も首を半分切断するという大怪我を負ったが、奇跡的に回復した事もあり、より一層キリスト教を信じる事に至った。
こうして、高山友照・高山右近は荒木村重の支配下に入り、和田惟長の居城だった高槻城主となり、城の大改修を行った。
この頃、高山右近は、以前、父・高山友照が洗礼を勧めた余野城主の黒田氏(余野高綱?)の長女(3女とも?)・ジェスト(13歳)を正室に迎えた。
高山友照は家督を高山右近(21歳)に譲り、教会建築や宣教師の布教にも熱心に活動し、1576年には宣教師オルガンティーノを招いて復活祭が行われ、1577年の1年間で4000人の領民が洗礼を受けキリシタンが70%以上に達したと言う。
その反面、高槻では神社仏閣が破却された為、高槻には古い神社や寺が非常に少ない。
1578年、荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻すと、高山右近は織田信長に詫びるように荒木村重を説得する為、妹(名前不明)と4歳の長男ジョアンを荒木村重の人質として差し出してまで誠意を見せて説得を試みたが、荒木村重の考えは変わらず高山右近は織田信長と荒木村重に挟まれて苦悩したが、周辺諸将と同じく荒木村重に味方する決断をし高槻城にて籠城した。
織田信長は、キリスト教に熱心な高山右近を加増などでは寝返らせるのは無理と思ったようで、高山右近に「畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにする」と脅迫。
高槻城では徹底抗戦と開城とで意見が割れたが、高山右近は城主を辞め、家族も捨てて、紙衣一枚で織田信長の前に出頭した。
高山右近の降伏は荒木村重勢を大きく動揺させ鎮圧に貢献したとして、織田信長は高山右近を許しただけでなく、高槻城20000石から40000石に加増すると言う異例の処置をした。
荒木村重の謀反の際には、高山右近の正室・高山ジュスタの実家である黒田氏は没落し、高山右近を頼っている。(既に不和となっており高山右近が余野城を攻めて降伏したとも?)
真面目だったとされる高山右近は人徳の人として知られ、牧村政治・小西行長・大谷吉継・蒲生氏郷・黒田官兵衛(黒田孝高)など多くの武将が影響を受けてキリシタンとなり、洗礼までは受けなかったが細川忠興・前田利家もキリシタンに対して好意的になったが、仏教徒の間では高山右近は暴君だとする記録もある。
また、働き手を失った寡婦や孤児の生活を助けたり、貧しい信者の葬儀では自ら棺を担うなど、身をもってキリスト教の愛徳を行なったと言う。
なお、茶人としても茶道に傾倒し、千利休の高弟の一人にも数えられ、名を「南坊」と号している。
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1582年6月、明智光秀の本能寺の変で織田信長が没すると、明智光秀は高山右近と中川清秀に味方になるよう書状を送ったが、間もなく中国大返して来た羽柴秀吉(豊臣秀吉)勢に加わり、山崎の戦いでは疲れている羽柴勢に変わって、先鋒を務め、伊丹城主・池田恒興らと主力として明智光秀を破った。
この功で、清洲会議にて加増となり、焼けた安土のセミナリヨ(神学校)を高槻に迎えた他、大坂城築城に合わせ大坂に教会を建てるのに尽力している。
柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、岩崎山を守備したが佐久間盛政の猛攻にあって中川清秀が討死し、高山右近はなんとか羽柴秀長の陣まで撤退している。
その後も羽柴秀吉に味方して、徳川家康との小牧・長久手の戦い、長宗我部家との戦いとなった四国征伐などにも参戦し、1585年、新たに明石城主(船上城主)となり60000石となった。
1587年6月19日、羽柴秀吉はキリスト教による日本征服の意図を疑い、九州征伐の途中「バテレン追放令」を出す。
この時、黒田官兵衛はすぐさまキリスト教を辞めたが、信仰が深い高山右近はキリスト教を続けた。
その為、武将・高山右近の才能を惜んだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、茶道の師匠である千利休を遣わせてキリスト教の棄教を促したが、主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士であると拒み、追放処分を受け入れて、高山右近は信仰を守る事を引き換えに、領地・財産をすべて捨て放浪の身となった。
以後、小西行長の助けを受け、小豆島や肥後などに隠れていたが、1588年、羽柴秀長の取り成しもあり、金沢城主・前田利家に招かれて15000石を受け、前田家で政治・軍事などの相談役になったようで「南坊」と名乗って、茶道と宣教に没頭した。
また、追放されたキリシタン武将(内藤如庵、宇喜多休閑)を招いてもいる。
1590年の小田原攻めでは、追放の身でありながらも前田勢に加わり参戦し、八王子城攻めなどに参加した他、1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、1609年には高岡城の縄張り(設計)も担当した。
下記は越中・高岡城にある高山右近の銅像。
徳川家康の天下となると、更にキリスト教は厳しく弾圧され、1612年、徳川幕府はキリシタン禁教令を発布。
1614年にはキリシタンの国外追放令を出し、高山右近は前田家に迷惑が掛かるとして、雪が降る2月15日に家族と共に金沢を発ち、徒歩で京都に向かい、坂本を経て大阪からは船で長崎に向かった。
長崎からはエステバン・デ・アコスタ号で、内藤如安らとフィリピン・マニラへ向けて渡航したが、順調なら10日程の所、43日と言う過酷な航海となり4名が亡くなったと言う。
マニラでは、日本の熱心なキリシタン大名として既に有名であり、1614年12月に到着するとマニラ市民は岸壁で盛大に出迎え、高山右近らはフィリピン総督フアン・デ・シルバらの大歓迎を受けた。
馬車で街を案内してもらった際にも、沿道は歓迎の市民で埋まり、聖堂の鐘が鳴り響いたと言う。
しかし、苦難の船旅の疲れや、慣れない気候や食べ物のためからか、老齢の高山右近は程なく熱病に掛かり、翌年1615年1月8日にマニラで没した。享年64。
高山右近の葬儀は、フィリピン総督の指示によってマニラ全市をあげ、イントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。
高山右近の死後、家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」が残っている。
1977年マニラのディオラ広場にマニラ市と高槻市民らが高山右近像を建立。これは、高槻城跡公園と同じ高山右近像になっいる。
また、1992年には日比友好の碑が取り付けられた。
2009年、高山右近の死は「殉教者扱いである」とのバチカンが見解を出し、2012年夏、殉教者として申請され、2015年の逝去400周年に合わせて列福されることを目標にしているようだ。
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コメント
コメント ( 3 )
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永井路子の「細川ガラシャ」の生涯を描いた「朱なる十字架」を読み終えて、
高山右近の生涯を確認したくなり、ここに訪問しました。
信仰のすさまじさとひたむきさを、つくづく感じ入りました。
戦国時代末期、キリスト教が戦国大名にこれほど浸透したのは、何だったのでしょうか。
何か目に見えない信仰の恐ろしいまでの力を思い知らされます。
根保孝栄・石塚邦男さま、この度はコメント誠にありがとうございます。
戦国武将がキリスト教を深く信仰した理由まで考えたことがありませんでしたので、私も考えさせられます。ありがとうございます。
また、機会がございましたら、コメント賜りますと幸いです。