池田恒興の解説~清洲会議における宿老の1人を簡潔にわかりやすく

池田恒興とは

池田恒興(いけだつねおき)は、1536年、池田恒利(滝川貞勝の次男)の子として誕生した。母は、池田政秀の娘(養徳院)18歳。
つまり、池田恒興の父は、滝川家から池田家に婿養子として入っていたのだ。
池田恒興の出身地は尾張の他、摂津出身(武家事紀)、近江出身(太閤記)、美濃池田荘出身(土岐斎藤軍記)など諸説ある。
しかし、母が元々尾張の池田氏だと考えられ、父・池田恒利は近江・一宇野城主・滝川貞勝の次男であり、池田家に養子に出された事を考慮すると、尾張出身と考えるのが妥当だろう。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優の徳重聡さんが池田恒興を演じられる。

1534年、父・池田恒利の主君である勝幡城主・織田信秀に嫡男・吉法師(のちの織田信長)が誕生すると、乳母・養育係に池田恒興の母(池田政秀の娘・養徳院)が抜擢された。
ちなみに、織田信長の傅役は平手政秀だ。
なお、この池田恒興の母(池田政秀の娘・養徳院)は、のちに3歳年上であった織田信秀の手が付き、池田恒利と離縁させられ、織田信秀の側室になっている。
 
こうして、池田恒興と織田信長は、乳兄弟であり、義理の兄弟でもあり、1545年、10歳の頃から織田信長の小姓として仕えた。


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父・池田恒利には与力として海東郡一色村の左介と言う人物も見受けられるが、池田恒利は1538年3月に死去。(1548年説もあり)
いずれにせよ、若き池田恒興が家督を継いだのだが、池田恒利の妻との離縁したと言うのが正しければ、1548年死亡説が妥当か。

1546年、織田信長は古渡城にて元服し、織田上総介信長と称した。1548年、織田信長の父・織田信秀と敵対していた美濃国の戦国大名斎藤道三との和睦が成立すると、斎藤道三の娘・濃姫と、織田信長は政略結婚した。
1551年、織田信秀が没して、織田信長は家督を継いだが、1553年、織田信長の教育係であった平手政秀が自害。

池田恒興は、萱津の戦い稲生の戦い、浮野の戦い、桶狭間の戦いに参加して高名を挙げたとされる。

1557年、織田信長は林秀貞・林通具・柴田勝家らが担いでいた弟・織田信行(織田信勝)と不和であったので、22歳になっていた池田恒興に織田信行の殺害を命令したようだ。
池田恒興ではなく、河尻秀隆が暗殺したとする説もあるが、河尻秀隆が暗殺実行した際に、織田信行(織田信勝)が逃げるのを池田恒興が捕えて切ったと言う事らしい。
そして、織田信長は、織田信行(織田信勝)の妻(荒尾善次・荒尾美作守善次の娘、法号善応院)を、池田恒興の正室に迎えさせ、1559年に長男・池田之助(池田元助)が誕生した。池田之助(池田元助)は1584年に小牧・長久手の戦い森長可と共に討死している。

1560年の桶狭間の戦いでは、抜群の器量を認められ、その功により侍大将に抜擢され、のち、池田家の家老になった香川長兵衛(伊木清兵衛)、土倉四郎兵衛、森寺清右衛門などを、織田信長の許可を得て家来にしている。

1561年5月23日、軽海の戦いで、敵将・稲葉又右衛門を佐々成政と二人で討ち取ったと言うのが正式に見受けられる初見だ。
1564年12月29日には、池田恒興の次男・池田輝政が清州で誕生。兄・池田元助と共に織田信長に仕え、池田輝政は信長の近習となる。

1566年には、3000貫で、尾張・木田城主。500騎持ち。


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1570年、30歳になっていた池田恒興は朝倉義景攻めに参陣し、姉川の戦いでは丹羽長秀とともに徳川家康に加勢した功績により、犬山城主となり10000貫を与えられた。
 
1573年には、槙島の戦に出陣し、その後、尾張国を任された織田信忠の組下となった。

黒田官兵衛有岡城の牢獄に捕えられた荒木村重謀反の際には、池田恒興と池田輝政の親子で、1579年11月、摂津倉橋に在陣。1580年、有岡城の支城・花隈城を攻め落としている。
合戦の功により、摂津国内に120000石を拝領し、池田恒興は兵庫城を築城。これにより、池田恒興は織田家の宿老に列した。
また、荒木村重の旧臣である、中西新八郎、星野左衛門、宮脇又兵衛、隠岐土佐守、山脇勘左衛門の5人を与力として付属されている。
 
1582年、甲府の武田勝頼攻めにて武田氏が滅亡したが、池田恒興は密かに落ち延びた武田勝頼の3男・武田勝親を匿い保護したと言う。しかし、生来病弱で、数年後に病死。
1582年5月、中国の毛利氏を攻めている羽柴秀吉の援軍を織田信長から命じられ出陣準備をしていたが、本能寺の変で、織田信長が明智光秀に討たれる。
この頃、明智光秀の与力を織田信長より命じられていた池田恒興には、明智光秀より味方するように手紙が届いたが、この時行動を共にしていた中川清秀、高山重友らを統括し、明智光秀討伐の兵を発するだけの兵力・組織を、池田恒興は備えていなかった。
そんな折り、羽柴秀吉が中国攻めから引き返すとの報が届き、池田恒興は兵庫城などで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍と合流した。

この前年に、池田恒興の三男・池田長吉は、羽柴秀吉の養子となって羽柴三郎と改名しており、羽柴秀吉と合流した池田恒興は、三女を羽柴秀吉の甥・羽柴秀次に嫁がすことを約束し、また、次男・池田輝政を羽柴秀吉の養子にすることを誓って羽柴秀吉に加勢。
池田恒興自身は剃髪して名を勝入と改め、長男・池田之助は紀伊守となった。
山崎の戦いでは4000を率いて右翼主力として先鋒を務め明智光秀を破って、織田信孝・羽柴秀吉・丹羽長秀らとともに入京。
その後、摂津での反乱を警戒したのち、清洲に駆けつけ、織田家宿老の1人として清洲会議に名を連ねた。
清洲会議に出席した他の宿老3名は、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀であり、実力経験ともに池田恒興は見劣りするが、織田信長の乳母弟であり、山崎の戦いでの戦功からも、清洲会議への出席権を得たのだろう。
この清洲会議の結果、池田恒興・池田元助・池田輝政は、大阪・尼崎・兵庫に120000石を得て、池田恒興が大坂城、伊丹城には池田元助、尼崎城には池田輝政が入った。


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翌年、1583年には、羽柴秀吉と柴田勝家の対決である賤ヶ岳の戦いが起こったが、池田恒興は参加せずに済んでいる。
その後、羽柴秀吉は本拠地を大阪にしたかった事もあり、池田恒興の所領は摂津国より美濃国に移り、大垣城主として130000石を領し、池田之助は岐阜城主、池田輝政は池尻城主となっている。柴田勝家が旧領である越前は丹羽長秀に与えられている。

そして、池田恒興の運命が果てる「小牧・長久手の戦い」が迫っていたのだ。

尾張・末森城 織田家と稲生の戦い
古渡城 織田信長が元服した名古屋の城跡
花隈城 花隈城の戦いと荒木元清
小牧・長久手の戦いと池田恒興に続く
池田輝政と池田元助~現在の姫路城を築城した池田輝政の功績
桶狭間の戦い「わかりやすく解説」現地写真あり~桶狭間古戦場跡・桶狭間合戦

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