織田信孝~有能な武将だったと考えられる織田信長の3男

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織田信孝とは

織田信孝は織田信長の3男として戦国時代の1558年に生まれた。
母は伊勢の豪族・坂氏の娘(華屋院)で、関氏の庶流・鹿伏兎氏の庶流とされる。
母方大叔父と言われる尾張衆(津島衆)の岡本良勝の屋敷にて、1558年に誕生したとされる。

なお、兄・織田信雄より数日早く生まれたとされるが、母の身分が低かったのか? 織田信長への報告が遅かったのか? 3男とされたと言われている。

1568年、織田信長が伊勢を平定すると、降伏・和睦した神戸城主・神戸具盛の娘・鈴与と婚約?(結婚?)して養子に入った。この際、幸田彦右衛門が傳役として付けられ、織田家から岡本良勝(岡本太郎右衛門)・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門・立木・河村らが信孝付きとして家臣に加わり、神戸家をまとめていった。
しかし、神戸具盛は養子である織田信孝を冷遇した為、怒った織田信長は1571年に、神戸具盛(32歳?)を近江・日野城に幽閉。
その後、1572年1月に、兄の織田信忠、織田信雄と共に織田信孝が岐阜城において元服(加冠役は柴田勝家)すると、織田信孝(神戸信孝)が、神戸家の家督を継いだ。
これに抗議した、神戸家の家臣・山路弾正をはじめ、神戸一族や旧家臣の多くは静粛されたと言う。


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織田信孝(神戸信孝)の家臣としては、関氏一族の関氏・峯氏・国府氏・鹿伏兎氏らが与力とされ、このほか峰竹右衛門・山路段左衛門・上田主水・野々懸彦之進・吉川九兵衛・岡本氏・長尾氏・神戸氏・安井氏・可児氏・林氏などの名が見られる。
家督相続後は「神戸検地」と呼ばれる検地を行い、神戸城下に楽市楽座、伝馬制を敷くなど領地経営に力を注ぎ、神戸の街は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えた。

織田信孝は1574年~1575年には、長島一向一揆の平定で初陣。その後、越前一向一揆の平定に参陣。伊勢長島での戦には織田信雄(北畠信雄)とともに参陣して大崎城を攻撃した。

1576年の三瀬の変、1577年の紀州征伐にも参戦し、1577年11月に従五位下・侍従に叙位・任官。

1578年の別所長治討伐では神吉頼定の神吉城攻略の際に足軽と功を競って奮戦し、総大将で兄でもある織田信忠から叱責を受けている。また、謀反を起こした荒木村重への討伐(有岡城の戦い)にも参加した。

行政官としての行動としては1580年に、病になった村井貞勝の代わりに、京にて朝廷との交渉にもあたった。

1580年7月、本願寺教如石山本願寺を退去するに際には、誓詞を交わすため、父・織田信長を京にて迎えている。

この頃には丹波・丹後を所領として与えられたようで、丹波衆・丹後衆に隊士て中国攻めの触書が存在する。

また、伊勢では神戸城の改修工事に着手し、五層の天守や多数の櫓を持つ近世城郭とした。


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1581年の京都御馬揃えでは、織田信忠・織田信雄・織田信包に次いで第4位の序列であった。

甲斐の武田勝頼との戦いにでは、木曾義昌が武田勝頼から離反するに際に仲介している。

1582年の四国攻めでは、自ら父・織田信長に願い出たとされるが、織田勢の総司令官に就任。
所領である北伊勢の河曲・鈴鹿の二郡において、15歳~60歳の名主・百姓を動員した他、牢人衆を召し抱えて、織田信張、雑賀孫市ら伊賀・甲賀・雑賀の他国衆も含めた遠征軍を組織し、副将には織田氏の宿老・丹羽長秀、蜂屋頼隆や従兄弟の津田信澄らを付された。
なお、この四国攻めにあたって、織田信孝は三好康長の養子になることが決定された為、幽閉されていた神戸具盛は許されて、神戸氏の当主扱いになった。しかし、三好家との養子の話はすぐに破談となった為、神戸具盛は神戸城近くの澤城を隠居所とした。

四国攻めの為、堺にて渡航準備をしていた1582年6月2日に、明智光秀による本能寺の変が勃発。
織田家の中では、京に近かったが、ルイス・フロイスの記録によると半数の逃亡兵が出たようで、直属兵も少なかった為、積極的行動は取れず、丹羽長秀の意見もあり、6月5日に明智光秀の娘婿である従兄弟の津田信澄を討ち取る為、丹羽長秀と共に野田城を襲撃。織田信孝の家臣・峰竹右衛門、山路段左衛門、上田重安が津田信澄を殺害した。

黒田官兵衛の進言もあって羽柴秀吉勢が「中国大返し」をすると、摂津国の富田で羽柴勢と合流し、織田信孝は名目上の総大将として、池田恒興中川清秀高山右近らと山崎の戦いに参戦。家臣・野々懸彦之進が斎藤利三に討たれるなどしたが、弔い合戦に総大将として勝利した。

朝廷にも羽柴秀吉とともに参内し、太刀を拝領している。

しかし、その後の「清洲会議」において、織田信雄と織田家当主の座を争ったが、柴田勝家、羽柴秀吉、池田恒興、丹羽長秀の合議により、羽柴秀吉の案で織田家の後継者は甥の三法師(3歳)に決まり、織田信孝は三法師の後見役として兄・織田信忠の遺領である美濃国を与えられた。
その際、岐阜城は本能寺の変後、加治田城主・斎藤利堯が占拠していたが、明智光秀が討死すると織田信孝へ明け渡し、以後、織田信孝の家老となった。

清須会議では羽柴秀吉とは対立して柴田勝家に接近し、神戸の姓を捨てて織田に復姓。柴田勝家と叔母・お市の方との婚儀を仲介したと言う。

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そんな中、羽柴秀吉は織田信長の4男で自身の養子でもある羽柴秀勝を喪主として、織田家の家臣団や織田信長子息を呼んで、織田信長の葬儀を主催。
池田恒興らも葬儀に参列したが、織田信孝と柴田勝家らは招待されなかった事もあり、一気に対立が表面化した。

1582年12月、羽柴秀吉は「三法師秀信」を当初の約束通り安土城に入れなかったことを理由に、織田信孝の岐阜城を包囲。冬季だったため北国からの柴田勝家の援軍も望めず、織田信孝は降伏。三法師を羽柴秀吉に引き渡し、母・華屋院と、娘・賢子らを人質に出した。

1583年、羽柴秀吉が柴田勝家を攻めた賤ヶ岳の戦いの際に、織田信孝は滝川一益とも手を組み、羽柴秀吉に対して挙兵。
しかし、羽柴秀吉側についていた兄・織田信雄によって1583年4月、岐阜城を包囲され、頼みの柴田勝家も北ノ庄城で自害すると再び降伏した。


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さすがに今度は許されず、人質の生母・華屋院と妹、娘および側室・神戸の板御前は処刑された。このとき同じく人質に出されていた重臣・岡本良勝と幸田孝之の母も処刑されている。 
織田信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源義朝が暗殺された場所)に送られて、織田信雄によってその地で自害・切腹させられた。この時、子供の男子某も処刑されている。
織田信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出して、床の間にかかっていた梅の掛け軸に投げつけたと伝わり、現在ではその掛け軸に血の跡が残っているとされる(非公開)。享年26。

織田信孝の墓

辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」だが、後世の創作と考えられる。

首は神戸城で受け取りを拒否され、検視・大塚俄左衛門が伊勢関町の福蔵寺に持ち帰り、首塚を作り手厚く弔った。
太田牛一が大野・海音寺で織田信孝の葬儀を営み、木像を彫って織田信孝を偲んだという。
現在、織田信孝の墓は安養院にあるが、昔は大御堂寺の一部であったそうだ。
 
なお、命日は1583年4月29日と5月2日の二説ある。

織田信孝の器量・人物は、本能寺の変で織田信長と共に命を落とした、嫡男・織田信忠に次いで評価が高かったようで、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、織田信孝の姿や器量・人物を危険視し、排除を急いだと考えられる。

天下人となった豊臣秀吉は、織田信孝の怨霊を畏れて霊を弔うべく、寺領190石を大御堂寺に寄進している。


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織田信孝の子である神戸信茂は、父・織田信孝の死後、武田家臣時代には小幡の赤備で知られ、北条氏家臣になっていた上野の宮崎城主・小幡昌高(小幡播磨守、小幡信実の弟)に仕えた。
しかし、豊臣秀吉の小田原攻め以降、小幡氏が没落したため、神原村に土着したと言う。

一方、、神戸城主には織田信雄の家老・林正武(林与五郎)が入った為、神戸具盛は林正武の嫡子・林十蔵に織田信孝の室(神戸具盛の娘)を再婚させて神戸氏を継承させた。

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