鈴木孫一(雑賀孫一)~石山合戦では雑賀衆の鉄砲隊にて織田勢を撃退





鈴木孫一(すずき-まごいち)は、鉄砲傭兵集団・雑賀衆の有力者である鈴木氏の頭領。
雑賀孫一とも呼ばれ、雑賀衆の頭目とされるが、雑貨衆を支配していた訳では無く、5つくらいの勢力が集まった雑貨衆の代表のような感じである。
また「孫一」と言う名は、雑賀衆・鈴木氏が代々継承する通称であり、鈴木孫一とされる武将は、鈴木重意(?~1585年?)、鈴木義兼(?~1589年?)、鈴木重秀(1546年?~?)、鈴木重朝(1561年?~1623年?)、鈴木重次(1598年~1664年)と複数おり、実績などは非常に混同しやすい。

一般的には、鈴木重秀(すずき-しげひで)が鈴木孫一としては一番有名だが、このページでは、あえて鈴木孫一は誰なのかは追求せず、石山合戦に名前が出てくる「雑賀孫一」としてご紹介する。

雑賀孫一(鈴木孫一)は、1534年生まれとされるが、前述の通り、詳しい事は良くわからない。



織田信長が攻めた石山合戦では、本願寺顕如を支援するため、鉄砲に優れた雑賀衆(さいかしゅう)を率いて石山本願寺の籠城に加わった。
雑賀衆では一向宗の門徒(信者)が多かったためだと推測できる。
ちなみに、敵対していた根来衆は織田勢を支援している。

塙直政が討死した天王寺の戦いでは、出陣した織田信長とも直接対決している。
ちなみに、この戦の後、京では孫一の偽首が晒されたと言うので、武名も高かったのだろうが、雑貨孫一なのか、それとも鈴木重秀の話なのか、判断も難しい。
ただし、雑賀鉄砲衆は鉄砲隊を前後2列に配置して、交互に発砲する戦術を取り、大活躍したと言う。

1600年、関ヶ原の戦いでは、伏見城の戦いなど石田三成の西軍に協力し、伏見城攻めでは鳥居元忠を討ち取っている。
戦後は浪人となり、その後、伊達政宗に世話になったあと、水戸藩に仕官したと言うが、没年は1589年5月2日ともあり、とにかく、分からないことだらけである。

※写真は「孫市の街まちづくり」さまより。

本願寺顕如~信長を困らせた浄土真宗の名僧
下間頼龍~本願寺の僧侶であり武将としても活躍した重鎮
乃美宗勝とは~浦宗勝とも名乗り水軍を率いた小早川家の勇将
児玉就英とは~毛利水軍を率いた草津城主
原田直政(塙直政)~山城と大和の支配を任された織田家の家臣
九鬼嘉隆~九鬼水軍を率いた織田家・豊臣家の水軍大将
紀伊・雑賀城 豊臣勢に雑賀衆が抵抗した拠点と雑賀撃ち
鳥居元忠~伏見城で華々しく散った忠義を貫いた三河武士
伏見城の戦いと伏見城 【関ヶ原の戦い前哨戦】

高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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