乃美宗勝とは~浦宗勝とも名乗り水軍を率いた小早川家一族の勇将


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乃美宗勝(のみ-むねかつ)は賀儀城主・乃美賢勝の子として1527年に生まれた。
乃美宗勝は、浦宗勝(うら-むねかつ)とも呼ばれる。

浦氏(乃美氏)の元祖としては、相模・土肥郷(湯河原)が出自の土肥一族で、土肥実平の子・土肥遠平が平氏討伐の恩賞として安芸・沼田荘(三原市)の地頭を賜り、のちに赴いたのが始まり。
万劫御前(伊東祐親の娘、工藤祐経前妻)を正室とした土肥遠平は、赴任前に神奈川県小田原市早川付近を所領として「小早川遠平」と称したのが、そもそも「小早川」と言う姓名の発祥と言う事になる。
そして、平賀義信の5男が土肥遠平の養子となって小早川景平となり継承した。
その沼田小早川氏の当主・小早川宣平の7男・小早川氏実が、豊田郡・浦郷(忠海)を知行して「浦氏」を称したのが浦氏の始まりとなる。
よって、浦氏実(小早川氏実)が浦氏(乃美氏)の始祖となる。
なお、相模・土肥の本家は、和田合戦にて敗れて土肥維平が処刑されるなどし衰退している。

さて、乃美宗勝(浦宗勝)の父・乃美賢勝は、小早川家の一族である浦元安の養子となっていたが、元々出身の乃美姓を名乗ったため、浦宗勝も乃美氏を称し「乃美宗勝」として小早川隆景に仕えた。
また、毛利元就の側室(継室とも?)の乃美の方(乃美大方)も乃美一族の娘であったとされている。

忠海・賀儀城は水軍城であり、乃美宗勝は小早川水軍を率いて、小早川隆景の腹心として活躍する。
乃美宗勝の妹は、因島村上家(因島村上水軍)の頭領・村上吉充に嫁いでいたことから、1555年、毛利元就による厳島の戦いでは、村上吉充を説得して因島村上水軍を味方につけた。
また、有名な毛利元就の「一日だけ船を借りたい」と言う言葉を来島城主(来島水軍)の村上通康(来島通康)に伝えて説得したともされている。

こうして、乃美宗勝(24歳)は、陶家の水軍に襲撃され危機に陥った毛利元就を救援するなど、厳島の戦いに大きく貢献した。、
また、1555年6月には、小早川隆景の命を受けて、陶晴賢の本拠・富田浦に水軍にて出陣し、若山城を威嚇するなどし、陶晴賢の自刃に対しても、一役も二役も買うこととなった。

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1555年10月から、毛利元就が防長侵攻を始めると、小早川水軍を率いて活躍し、毛利家の九州に進出にも大きな役目を果たした。
1561年、門司城の戦いでは上陸して、大友勢の勇将・伊美弾正左衛門と一騎打ちしたと言う。
この時、乃美宗勝(35歳)は負傷したが、伊美弾正左衛門を討ち取った。

1565年、忠海・賀儀城を築城(改修か?)して、水軍の本拠地としている。

1568年には、毛利元就の伊予出兵に従い、伊予の河野通宣を救援した。

1569年、立花城の戦いでも活躍して、毛利元就より立花城代に任じられている。
しかし、大友義鎮の支援を受けた大内輝弘が長門に入り、尼子家の残党・尼子勝久と山中鹿之介らの反撃もあり、毛利主力は大内輝弘を征伐するため立花山城から去る。
乃美宗勝は、わずかな兵にて立花山城を大友宗麟勢から守ったが、1570年、戸次鑑連(立花道雪)に降伏して開城した。
安芸に戻ると勝運寺を建立し、菩提寺としている。

1575年、乃美宗勝は備中・松山城主である三村親成を宇喜多直家らと攻撃したあと、孤立した備中・常山城攻め(常山城の戦い)に参陣し、上野隆徳を攻撃した。
常山城が落城寸前となった際には、上野隆徳の妻・鶴姫(三村元親の妹)が、34人の侍女を引き連れて突撃し、城兵83人もこれに続いたと言う。
鶴姫は、乃美宗勝に対して「良き相手」と勝負を挑んだが「女とは戦えぬ」と説得。
多勢に無勢で鶴姫らの兵や侍女らは次々に倒れ、鶴姫は「これで後生を弔ってもらいたい」と伝家の宝刀「国平の太刀」を乃美宗勝に渡すと、常山城内に戻って自刃したと言う逸話もある。
幼い子や上野隆徳らも自害して果ても毛利家は備中を手に入れた。

1576年5月、播磨・英賀城主である三木通秋の元に派遣された乃美宗勝(50歳)は、5000にて姫路を伺った。
しかし、御着城主・小寺政職の重臣である小寺孝高(黒田官兵衛)500による奇襲を受けて、英賀の戦いとなり、農民が掲げた旗を「援軍」とみた乃美宗勝らは、上月城へ撤退した。

1576年7月13日、第一次木津川口の戦いでは毛利水軍の総大将を乃美宗勝が務め、九鬼嘉隆率いる九鬼水軍を壊滅させ、石山本願寺に兵糧を補給する事に成功した。

織田信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)を毛利攻めにと1577年10月から派遣し、1578年の第2次木津川口の戦いでは、完成した6隻の鉄甲船を用いた為、乃美宗勝らの毛利水軍は敗北を喫している。

1579年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が包囲する三木城へ、乃美宗勝は兵糧補給に成功し、別所長治を助けた。

1582年、乃美宗勝の嫡男・浦盛勝が羽柴秀吉による調略を受けたとされると、浦盛勝は急死した。
これは小早川隆景ら毛利家による暗殺ともされているが、竹中半兵衛黒田官兵衛らの策略だった可能性もあるだろう。

織田信長が本能寺の変にて横死したあと、天下人に近づいた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に毛利輝元が臣従。

豊臣秀吉の九州攻めにて、1587年、立花宗茂が立花山城から筑後・柳川城(柳河)に移封となると、小早川隆景は名島城を居城とし、乃美宗勝(浦宗勝)が立花城代となった。
1591年の時点で、嫡子となる乃美景継(乃美備後守景継、乃美孫兵衛)が40万1058石、乃美宗勝の弟・乃美元信(乃美四郎兵衛)は27万3845石、乃美宗勝は隠居していたようで5万石と言う情報もある。

1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵では、乃美宗勝も小早川隆景に従い船団を率いて朝鮮へ渡ったが、現地で病気となり帰国したあと、1592年9月23日、立花山城近くの筑前糟屋郡秋屋にて死去した。
享年66歳。

立花山城からも近い宗勝寺に浦宗勝の墓がありますが、安芸・賀儀城からほど近い勝運寺にも、浦宗勝の墓(乃美宗勝の墓)がある。

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