小早川隆景【詳細版】~毛利家大きく支えた智将

小早川隆景


小早川隆景(幼名は徳寿丸)は、1533年、毛利元就の3男として誕生。母は毛利元就の正室・妙玖(本名は不明)。
兄に、毛利家を継いだ毛利隆元と、吉川家を継いだ吉川元春がいる。
幼少期には人質として大内義隆に出されていたが、その際に、当主・大内義隆のこと、家中の様子などを観察し、大内家衰亡の兆候を父・毛利元就に報告していたことが知られている。
1541年、竹原小早川氏の当主・小早川興景(木村城主)が銀山城攻撃の陣中で病にかかり死去。(享年23)
小早川家には跡継ぎがいなかったが、この小早川興景の正室は毛利元就の姪(毛利興元の娘)と言う事もあり、小早川本家(沼田小早川家)の重臣・乃美隆興(茶臼山城主)らは徳寿丸(小早川隆景)に跡を継がせるよう求めたが、毛利元就はこれを固辞。
1543年、尼子方の神辺城主・山名理興が小早川領に侵攻すると、乃美隆興は高山城を守備し、毛利元就と協力して山名勢を撃退。
1544年、毛利家が臣従していた大内義隆(山口・大内氏館)の強い勧めもあり、小早川家の当主に3男・徳寿丸を送る事を毛利元就が承諾。徳寿丸(12歳)が大内義隆の偏諱を賜い隆景と称し、木村城に入って小早川家の養子となり家督相続して小早川隆景となった。
1545年の秋、母・妙玖(みょうきゅう)が郡山城内で死去。


1547年、大内義隆が備後神辺城を攻めたときに小早川隆景も従って初陣を飾った。小早川隆景は神辺城の支城・龍王山砦を小早川軍単独で落城させ、大内義隆から賞賛されている。

1548年頃に、小早川隆景擁立に尽力した乃美隆興の娘・乃美大方が、毛利元就に嫁いだ。側室か継室かは良く分かっていないが、3人の男子(穂井田元清、天野元政、毛利秀包)が誕生している。

この頃、小早川氏の本家である沼田小早川氏の小早川繁平は8歳と若年で病弱な上、眼病により盲目となっていたため、家中は小早川繁平派と小早川隆景擁立派で対立する事となった。
大内義隆は、病弱かつ盲目である小早川繁平では尼子晴久の侵攻を防ぐことはできないと考え、また沼田小早川家の家臣も、尼子晴久に押されている大内義隆は、今後尼子の侵攻に耐えられないと懸念した事もあり、1550年、大内義隆は毛利元就と共謀し、乃美隆興・乃美景興らの小早川隆景擁立派を支持。
尼子晴久との内通の疑いを掛け、強引な手段で小早川繁平を拘禁・隠居・出家させ、小早川繁平は教真寺の僧となった。
そして小早川隆景(18)を小早川繁平の妹(後の問田大方)に娶せ、沼田小早川氏を乗っ取る形で家督を継がせ、沼田小早川家・竹原小早川毛を統合。小早川隆景は高山城主となった。
その時、小早川繁平を支持した田坂全慶ら重臣の多くが粛清されている。
 
小早川隆景は沼田小早川氏の本拠・高山城に入城したが、翌年1552年には沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築城し、新たな本拠地とし、以後毛利家一門として、強力な小早川水軍を率いて数々の合戦で活躍する事となる。
なお、小早川隆景と門田大方(といた゛のおおかた)との間には子供ができなかったため、桓武平氏流・小早川本家の血筋は途絶えたが、小早川隆景は側室を生涯置かず、夫婦仲は睦まじいものであったとされる。

1551年、大内義隆が家臣・陶隆房の謀反によって殺害された。(大寧寺の変) これに乗じて毛利元就は陶隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領するも、厳島の宮尾に城(宮尾城)を築いて、大内氏の実権を握った陶晴賢と対立。
以後、毛利元就は独立色を強めて、平賀隆保を攻略し、大内氏内部の調略を行うなどして勢力を拡大。
1554年には、尼子氏の主戦力だった新宮党の尼子国久・尼子誠久らが尼子晴久に粛清されるという内紛が尼子家でも起こったが、これも毛利元就の策略だとする説もある。
そして、神辺城主・山名理興も毛利元就に臣従。折敷畑の戦いで宮川房長を大将とした大内勢を壊滅させると、安芸は毛利家の支配下となった。

更に毛利元就は「今、厳島を攻められれば困ると元就が言った」という嘘の情報を流したり、毛利元就の家臣・桂元澄が陶晴賢に対して内応を約束するという偽の書状を出したりするなどの謀略を使って、船500隻、20000の陶軍を厳島におびき寄せた。

1555年、毛利元就に取って大変重要な合戦となった厳島の戦いにおいて、陶晴賢率いる大内水軍に小早川水軍は勝利して海上を封鎖し、毛利勢の勝利に大きく貢献した。

厳島の戦い

この時、乃美宗勝を通じて村上武吉を調略し、強力な村上水軍も毛利傘下に引き入れた功績も大きい。
安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした陶晴賢は、狭い島での大軍で身動きが取れず、本陣を襲撃されて敗北。
村上水軍によって大内水軍が敗れて退路も断たれ、脱出する船もなく、厳島の大江浦へ逃走したところで自害した(厳島の戦い)。享年35。

1557年、急速に衰退した大内氏の周防・長門を攻略して、大内氏を滅ぼした戦い(防長経略)にも参加。

毛利元就が一時隠居して、長兄・毛利隆元が毛利家の家督を継いだが、小早川隆景は吉川元春と共に毛利毛の主力として君臨。
1563年、兄・毛利隆元が急死し、甥の毛利輝元が家督を継ぐと、以後は吉川元春と共に幼少の毛利輝元を補佐した。
主に軍事面は吉川元春が担当したが、小早川隆景(35歳)の統率能力と智謀は凄まじいものがあり、水軍の情報収集力を活かして主に政務・外交面を担当している。

小早川隆景の銅像

1562年から1566年にかけての月山富田城の戦いでは、宿敵・尼子氏との戦いでも貢献。
1567年、備後に三原城を築城して本拠を移した。これは本領・沼田が山の中で、村上水軍との連携に都合が悪いと考えた為で、三原城は船で直接城に入れる浮島城の構造になっており、水軍の強化に務めたようだ。

1567年からは河野氏を助けて伊予に出兵し、大洲城を攻略して宇都宮豊綱を降伏させている(毛利氏の伊予出兵)。さらに大友氏と争い九州にも出兵。
1569年には、筑前・博多の支配権をめぐり、大友宗麟と対立した。(立花城の戦)

1570年、父・毛利元就の謀略が成功し、出雲の尼子氏を降伏させ、毛利氏は中国10ヶ国120万石の支配者となった。

毛利家が120万石と、西国の覇者となった頃から、台頭して来た織田信長の勢力が東から迫りつつあり、播磨の赤松義祐・赤松則房、別所長治小寺政職らが黒田官兵衛の策もあり織田信長に恭順。

1571年、毛利と敵対したいた、浦上宗景が家臣の宇喜多直家や、阿波・桜城主の篠原長房とともに、三村元親の児島へ侵攻すると、毛利家と疎遠になっていた村上武吉も寝返った。
小早川隆景は、村上武吉の本拠で要害の能島を直接攻めず、能島の補給地となっていた塩飽諸島を占領して、能島を兵糧攻めにして、村上水軍の本太城を陥落させ、児島にも粟屋就方を送り込んだ。
そんな中、1571年6月14日、吉田郡山城において毛利元就が死去。小早川水軍などは一旦安芸へ退いたが、1572年に村上武吉へ乃美宗勝を使者として送り、村上武吉を降参させ、以後、村上水軍は小早川水軍・児島水軍・乃美水軍などと共に毛利水軍として織田信長の水軍と対決していくことになった。

毛利元就の死後は、まだ若い毛利輝元を支える補佐役として、吉川元春・小早川隆景は「毛利両川」として、大友氏や尼子氏、大内氏の残党らと争いに各地を転戦。

1574年には、織田信長勢が毛利氏の勢力範囲にまで迫るようになり、播磨の浦上宗景が織田家の支援を受け、毛利家と戦を交え、1575年には三村元親が織田方に通じて寝返った。
これに小早川隆景は、三村元親を討伐し、豊後の大友宗麟が織田信長と通じて侵攻してくると、水軍を率いて大友勢とも戦っている。

1576年、毛利領内の鞆に落ち延びてきた15代将軍・足利義昭の勧めもあり、毛利家は織田家と全面対決することとなり、吉川元春が山陰、小早川隆景が山陽を担当して、第2次信長包囲網の一角として戦った。
信長包囲網の中心的存在であった石山本願寺本願寺顕如を救援した第一次木津川口の戦いでは、小早川水軍・村上水軍を主力とする毛利水軍が、織田勢の九鬼嘉隆率いる九鬼水軍を破っている。
しかし、1578年の第二次木津川口の戦いでは、鉄甲船を配備した九鬼水軍に大敗して、制海権を失った。
 
その後、本願寺顕如が織田信長に降伏すると、織田勢の中国方面軍司令官となった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の攻略が伸び、毛利勢は押される一方となった。

1579年には備前の宇喜多直家が織田勢に離反。
同年、小早川元総を養子に迎えている。この小早川元総は、毛利元就の9男で、母は乃美隆興の娘・乃美大方であった、養子に迎えたのは、毛利元就の武勇を兄・吉川元春と並び小早川元総が最も受け継いでいたためだと言われている。
1580年には2年間籠城した三木城を充分に支援できず、陥落すると別所長治が自害。
1581年には、因幡・鳥取城でも多数の餓死者が出る籠城戦の末に陥落し、城主・吉川経家が自害している。

1582年には備中高松城主・清水宗治の籠城を救援する為、小早川隆景は毛利輝元・吉川元春と共に毛利家主力30000を率いて出陣した(備中高松城の戦い)が、積極的に攻めず、安国寺恵瓊を通じて羽柴秀吉と和睦交渉を秘密裏に行った。
1582年6月に、明智光秀による本能寺の変が起きて織田信長が死去すると、羽柴秀吉は毛利勢に本能寺の変を秘したままで急ぎ和睦を結び、中国大返しを実施し、天王山の戦いで明智光秀を討伐している。
この時、停戦協定を結んだ直後に、織田信長の死を知った吉川元春は、すぐ追撃することを主張したが、小早川隆景は、羽柴秀吉に勢いがあることを読みとり、羽柴秀吉に協力して毛利家を安泰にもって行くことを主張したと言う。

1582年、小早川隆景は新高山城から瀬戸内海に面した三原城に本拠を移した。

三原城

清洲会議の後、柴田勝家と羽柴秀吉が織田家の実権を掛けて争った、1583年の賤ヶ岳の戦いでは毛利家はどちらにも味方しなかったが、その後、黒田官兵衛の交渉もあり、毛利家と織田家の国境線を確定させ、天下統一に近づきつつあった羽柴秀吉に毛利家は事実上臣従した。
この時、小早川隆景は養子の小早川元総(毛利元就の9男、のちの毛利秀包)を人質として羽柴秀吉に差し出し、吉川広家と共に大阪城で人質になっている。

その後、積極的に羽柴秀吉の天下統一に強力し、1585年の四国攻めでは伊予の金子元宅を破るなどの功績を挙げた。
羽柴政権は小早川隆景に伊予一国を与えて独立大名にしようとしたが、小早川隆景は、毛利家に与えられた伊予を受領する形で毛利家の一武将としての体裁を保っている。

伊予の湯築城に入城すると、大津城(大洲城)に毛利秀包を配置して伊予の統治を開始し、河野通直を道後に隠居させると、旧河野家家臣や西園寺公広と家臣を配下に加えた。
ただし、伊予領主になっても本拠地は三原城のままとして、1586年には九州征伐にも参戦。戦後の論功行賞では羽柴秀吉から筑前・筑後・肥前1郡の37万1300石を与えられた。
しかし、九州征伐では兄・吉川元春とその嫡男・吉川元長が相次いで陣没した為、以後、毛利輝元の補佐は小早川隆景1人で毛利家の行く末を決めて行く事となった。
1588年7月に上洛すると豊臣秀吉から、羽柴の名字と、豊臣の本姓を下賜されている。
また、この年、豊臣秀吉が「海賊停止令に背いた」とされた村上武吉を、小早川隆景は何度もかばっている。
1590年には、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)にも水軍を率いて従軍。

1592年の文禄の役では、6番隊の主将として、村上水軍の村上元吉村上景親ら10000を率いて朝鮮に出陣し、全羅道を攻めたが、本格的な攻略を行わないうちに明軍の援軍が来襲した為、京畿道へ配置転換され、1593年に立花宗茂と共に明軍を撃退している(碧蹄館の戦い)。

1593年、羽柴秀吉に豊臣秀頼が誕生すると、黒田官兵衛から丹波亀山城10万石の「羽柴秀俊を毛利本家の跡継ぎとして養子に迎えたらどうだ」との打診があった。
この羽柴秀俊は、羽柴秀吉の正室・北政所の兄・木下家定の子で、羽柴秀吉の養子になっていた。
羽柴秀吉の子を断る事もできないが、このままでは毛利本家が羽柴秀吉一門に乗っ取られてしまうと考えた小早川隆景は、すぐ、実子のいなかった毛利輝元に一門で、毛利元就の4男・穂井田元清の子である秀元を、毛利輝元の養子に迎えさせて毛利家の後継ぎとして羽柴秀吉に紹介した上で「羽柴秀俊様はそれがしの養子にいただきたい」と申し出た。
1594年、羽柴秀吉は、羽柴秀俊を毛利輝元の養女・古満姫(五龍城主・宍戸元秀の娘)と養子縁組させ、小早川秀秋と改名させた。
この養子縁組で小早川隆景の官位は中納言となり、徳川家康前田利家宇喜多秀家上杉景勝らと共に豊臣政権の大老に毛利輝元と共に名を連ねた。
※小早川隆景は間もなく1597年に没した為、豊臣秀吉の遺命によって「五大老」とされたのは、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元となった。
小早川隆景の養子となったいた小早川秀包は別家を興し、朝鮮の役や、関ヶ原の戦いの際には京極高次が籠る大津城攻撃でも活躍したが、その後、毛利姓に復している。

1595年には家督を小早川秀秋に譲って隠居。小早川隆景は、九州を離れて主な家臣を連れて小早川家の本貫である三原城で隠居した。
小早川秀秋は豊臣秀次事件に連座して丹波亀山城を没収されたが、小早川隆景が家督を譲った事で、筑前・筑後など30万7000石を相続し、名島城主となった。
その際、豊臣秀吉から筑前に50000石という破格の隠居料を拝領すると、名島城を大改修して居城としている。
しかし、1597年6月12日に急逝。享年65。死因は卒中と考えられている。
墓所は米山寺


死後、三原城に移っていた家臣団は毛利家に帰参し、筑前50000石にいた村上氏・日野氏・草刈氏・清水氏らの小早川隆景家臣は、小早川秀秋に仕官したものの外様衆となり、小早川家の重臣としては豊臣秀吉から送られてきた山口宗永、松野重元、稲葉正成、平岡頼勝、滝川辰政(滝川一益の子)ら豊臣家の家臣団が補佐することになった。
そして、毛利両川の役割は2人の甥の吉川広家と毛利秀元が担った。
吉川広家に対して「羽柴との誓約を守ったからこそ、毛利家が豊臣政権下で安泰でいられる」と語って聞かせたという記述が吉川家文書にある。

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