毛利隆元の解説 人物像やネガティブな性格と真の評価は?

毛利隆元

毛利隆元(もうり-たかもと)は、戦国時代における中国地方の覇者・毛利元就の嫡男です。
しかしながら、元就の息子と言うと吉川元春小早川隆景が有名ですし、毛利元就亡き後の毛利家当主と言えば、毛利輝元を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

毛利元就という有名武将の嫡男であるにも関わらずイマイチ知名度が低く、しかも弟の吉川元春と小早川隆景に隠れがちな毛利隆元とは、一体どのような人物だったのでしょうか。

毛利隆元の実像に迫ってみたいと思います。


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人質時代の毛利隆元

毛利隆元は、毛利元就とその妻 妙玖(みょうきゅう)の子として、大永3年(1523年)に生を受けました。この頃の中国地方には、大内家と尼子家という二大勢力があり、常にどちらかの勢力に従属していないと生き残れないほど、毛利家は小さな存在でした。

そんな状況下にあって、天文6年(1537年)、15歳になった毛利隆元は一方の大勢力である大内家へ、従属の証として人質に出されることとなりました。
つまり、毛利家が離反するようなことがあれば、隆元の身も無事では済まない、ということです。

15歳と言えば当時としては元服の年頃、つまり大人として見なされる年齢ですが、そこはやはり15歳、現代で言えば中学生くらいです。
親元を離れて見ず知らずの土地に、しかも人質として連れて行かれると言うのは、かなりの不安を伴ったのではないでしょうか。

なお、大内家は周防国(すおうのくに、現在の山口県)の守護大名であり名門中の名門。
当主の大内義隆京都の文化にも精通した教養のある大名で、その本拠地も城郭ではなく、街の中の平地に建てた館でした。
大内義隆の京風文化への傾倒は相当なもので、現在では『大内文化』と呼ばれその名残を伝えるとともに、山口は『西の京』と言わしめるほど雅な街だったと言われています。

このような街並みを初めて目にした隆元は、大きな衝撃を受けたことでしょう。

そんな大内家へと人質に出された隆元でしたが、人質とはかけ離れた不自由のない生活を送っていたと伝わっています。
大内家当主の義隆にも寵愛され、むしろ賓客のようにもてなされたそうです。
さらには、隆元の『隆』は、義隆から一字を賜った(偏諱)ものですし、隆元の妻は義隆の養女でした。

15歳という多感な時期に大内家で過ごした経験は、隆元の人間形成に少なからず影響を与えたものと思われます。
この義隆から受けた厚遇が、後の隆元を奮起させる要因となり、さらには毛利家を大躍進させるきっかけとなっていくのです。


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偉大な父と有能な弟たちの狭間で

そんな隆元が、毛利家の本拠である安芸(あき、現在の広島県西部)に戻ってきたのが、天文9年(1540年)です。
それから約6年後の天文15年(1546年)に、父 元就から家督を譲られており、隆元は毛利家の当主になっています。

元就の後に毛利家当主となったのは、輝元(隆元の子)のような印象がありますが、正確には1度隆元を挟んでいるというのは、案外見過ごされがちな部分です。
しかしながら、実権は元就が握っており、名前だけの当主だけだったようです。

この頃から、隆元は自らを卑下するようになり、『弟たちが自分を仲間外れにしている』とか『父が隠居するなら自分も隠居する』、『名将の子は凡庸だ』、『父が長生きできるのなら自分の命はどうなってもいい』などと、かなりネガティブな発言が目立つようになります。

偉大過ぎる父 元就、そして父を補佐する有能な弟たち(吉川元春と小早川隆景)に挟まれた隆元は、どうしても自信が持てなかったようで、自身のことを『才覚不器用』とまで言って貶めています。

このようなマイナス思考になってしまった隆元には、元就もかなり頭を悩ませていたようで、なかなか実権が移譲できなかったと言われています。

隆元の気迫と厳島の戦い

毛利家が大躍進する契機となった天文24年(1555年)の厳島の戦い(いつくしまのたたかい)。
北条氏康の川越夜戦、織田信長桶狭間の戦いと並び、戦国の三大奇襲戦とも言われている合戦です。
この合戦には隆元も参戦するのですが、元就が決戦を決意するに至ったのは、隆元の強い意志に動かされたからだと言われています。

というのも、遡ること4年前の天文20年(1551年)、隆元を寵愛していた大内義隆が、家臣の陶晴賢(すえはるかた)の謀反により自害するという大事件が起こりました。
この出来事を『大寧寺の変』と言います。

京風文化に染まり過ぎて軍事面を疎かにした結果、武断派の代表格である晴賢が不満を抱き謀反に及んだのです。
この事件を契機に、大内家は晴賢が牛耳ることとなり、勢力を拡大しつつあった毛利家との関係がしだいに悪化していきました。

しかし、晴賢と険悪な状況と言っても、毛利家との戦力差は歴然としていました。
陶晴賢軍2万vs毛利軍4千・・・毛利元就は戦うことを躊躇しました。
※兵数には諸説あり


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この時に元就を奮い立たせたのが、隆元の強い意志と気迫だったと言われています。

隆元にしてみれば、青春時代を過ごした思い出の場所、周防国(山口県)。
大内義隆は人質である隆元に温かく接してくれたうえ、しかも養女を妻にしてくれた大恩人。
そんな大内義隆を裏切った逆臣 陶晴賢。

しかも、晴賢と毛利の悪化した関係はもはや修復不可能な状況に至っており、いずれにしても晴賢との決戦は不可避とし、戦う意思を貫きました。

この隆元の気迫に後押しされ、毛利家は晴賢と戦うことを決意。
元就は様々な謀略を張り巡らし、晴賢を翻弄したと言われています。
そして、雌雄を決する厳島の戦いに臨み大勝利を収めたのです。
もちろん隆元も元就と共に本隊を率い、この勝利に貢献しました。

こうして、元就は歴史の表舞台に登場し、毛利家は戦国時代屈指の大大名への第一歩を踏み出したのです。

なお、この決戦の地が、現在は世界遺産となっている人気観光地、安芸の宮島です。

まさかの急逝

厳島の戦いに勝利し、大きな飛躍を遂げた毛利家。
この後、大内の残党も倒し(防長経略)、現在の山口県全域を手中にしました。
中国地方の二大勢力の一方を蹴散らすことに成功した毛利家の次なる敵は、山陰に勢力を振るう尼子氏となりました。

この段階においても、毛利家の実権は毛利元就が握っていたようですが、形の上では毛利隆元が毛利家の当主です。
弟たちとともに、尼子攻略に邁進すると同時に、この頃から武将としての力を発揮しはじめます。


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山口県を制したことで北九州の大友氏とも交戦状態に入った毛利家。
北九州に勢力を持っていた大友義鎮(後の大友宗麟)とも戦わねばなりませんでした。
元就が尼子氏と戦っている真っただ中に、北九州方面では隆元が軍を指揮し大友氏との戦いに勝利するなど、内政面・軍事面で武将としての器量を見せ始めたのです。

隆元の活躍によって大友氏への対応が一段落した後、尼子氏攻略の陣に加わる為、隆元は山陰方面を目指します。
しかし、この時に思いもよらぬ事態が発生しました。

永禄6年(1563年)8月3日、尼子氏攻略へ向かう途上、和智誠春という武将から饗応を受けた直後に体調を崩し、隆元は突然この世を去りました。

尼子氏攻略の陣中にて隆元急逝の報に接した元就は、たいそう悲しんだと言われています。
その悲しみと怒りは凄まじく、隆元を饗応した和智誠春は毒を盛った疑いをかけられ、さらには隆元の家臣たちはその責任を追及され、処刑あるいは切腹に追い込まれました。
しかし、これらの疑いは潔白だったのではないかと言われています。

今となっては、なぜ隆元が急逝したのかを知る術はありません。
しかしながら、見切り発車で処刑や切腹を命じてしまった元就が、いかに錯乱状態だったかが伝わってきます。

三本の矢

こうして隆元は41歳で突如としてこの世を去りました。

毛利元就の逸話として有名な『三本の矢の教え』

一本では簡単に折れてしまう矢も、三本束ねれば折れることはない

『三本の矢の教え』自体は後世の創作とされていますが、元就が三兄弟に宛てた長文の手紙(三子教訓状)が現存しており、兄弟間の結束を説いていたことは間違いありません。


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吉川元春、小早川隆景、そして毛利隆元。
隆元の急逝によって、その中の一本が突然折れることになりました。

ところが、この後の毛利家はさらに結束を強めていくことになります。

元就の次男 元春は吉川家へ、三男 隆景は小早川家に養子にだされており、それぞれの家の当主でした。
故に毛利家よりも、吉川家や小早川家の立場を優先する状態でした。
そもそも、元就が教訓状で長々と結束を説いているということは、兄弟の仲は決して良くなかったのでしょう。

しかし、隆元が亡くなった後に、毛利家の収入が減少、民も大いに悲しんだと伝わっており、彼が如何に毛利家に必要な人間であったかを知ることとなります。
こうした事実を知った元春と隆景は、隆元のいなくなった穴を埋める為、より結束を強め毛利家に尽くしていくこととなったのです。

結果、毛利家は尼子氏を倒し、中国地方全域に及ぶ広大な領土を手にし、中国地方の覇者となりました。


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父の存在に委縮し、弟たちの能力に強い劣等感を感じていた毛利隆元。
確かに毛利家当主としては頼りない存在だったのかもしれません。
しかし隆元がいたからこそ、我の強い弟たちとの均衡が保たれていたのかなと思います。

そしてその死後も、毛利家結束のために重要な役割を果たしました。
その自己評価とは裏腹に、隆元は毛利家にとってなくてはならない存在だったのです。

(寄稿)拓麻呂

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