毛利季光とは
戦国大名・毛利元就や、上杉謙信の家臣でNo3の座にいた北条高広の先祖である毛利家の祖「毛利季光(もり-すえみつ)」をご紹介したい。
毛利季光は鎌倉武士であるが、父は鎌倉幕府で政所初代別当を務めたあの大江広元で、その4男として1202年に生まれた。
その父・大江広元の広大な所領のうち、神奈川県厚木市の毛利庄(もりしょう)の地頭となって毛利季光と名乗ったのが大江氏系「毛利家」の始まりである。
三島神社の場所が、かつて毛利季光の屋敷があった場所だとされている。
1216年12月、左近将監に任ぜられると、1217年2月8日には蔵人となり、4月9日に従五位下に叙せられている。
毛利季光は、3代将軍・源実朝に仕えていたが、源実朝が殺害されてからは出家して「入道西阿」と称している。
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1221年、承久の乱では、執権・北条泰時に従って大軍を率いて後鳥羽上皇の勢力と戦い、美濃・木曽川の戦いや、山城の宇治川・淀川の戦いにて戦功を挙げ、その功により安芸国吉田荘の地頭職を与えられ移住した。
1233年、執権・北条泰時から関東評定衆に任命され、1246年には、4代将軍・藤原頼経と藤原頼嗣の父子を自邸に迎え、当時、鎌倉幕府5代将軍に就任したばかりの藤原頼嗣の甲冑着初式を行うという栄誉も得ている。
1247年、北条家の執権派と対立した三浦泰村の妹が妻であったことから、宝治合戦にて三浦家に味方するも敗北する。
吾妻鏡によると「甲冑を着し、従軍を卒して御所に参らんがために打ち出ずるところ」とあり、妻(三浦泰村の娘)に、鎧の袖をつかまれて「私の兄(三浦泰村)を捨てて、時頼につくとは何事か」と詰め寄られた結果、三浦泰村に味方したとある。
この時は、北条時頼の義父でもあったとされ、苦渋の決断とも言えよう。
そのため、源頼朝の鎌倉法華堂で、息子の毛利広光・毛利光正・毛利泰光・毛利師雄らと共に自刃して果てた。
また、毛利季光の娘が、執権・北条時頼の正室になっていたが、離別されたともある。(もともと、毛利季光の娘が執権家から嫁いでいなかったとする説もある)
しかし、毛利一族のうち越後にいた四男・毛利経光の家系が唯一残り、その子孫が吉田荘に移り住んで国人領主から一躍中国地方の覇者となった毛利元就が出るのである。
これは、大江一族の長井泰秀が執権・北条氏に吉田荘安堵の嘆願をしたことが効を奏した形であった。
また、幕末から明治に活躍し、内閣総理大臣にもなった桂太郎の桂家も毛利家一族であり、本姓は大江氏である。
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毛利発祥の地
相模の毛利庄(神奈川県厚木市)には「三島神社」がある。
その場所を中心にして、毛利季光の屋敷があったとされており、三島神社の境内には「毛利氏発祥の地碑」が建てられている。
なお、鎌倉時代「毛利」は「もり」と読まれていたが、のちに「もうり」と読まれるようになっている。
そもそも平安時代末期に毛利荘を領地としていたのは、河内源氏・八幡太郎義家(源義家)の7男・源義隆である。
源義隆は森冠者と呼ばれて相模国毛利庄を領しており森六郎とも言う。
陸奥冠者、陸奥六郎ともあるのでのち陸奥に移ったのか領地を得たと言えよう。
子には長男・源義広 (毛利治部丞・毛利義広)がおり、弟・毛利頼隆(源頼隆)は平治の乱の際に、父・源義隆が源義朝の身代わりとなって討ち死にしたあと配流されて千葉常胤が面倒を見ている。
このように、大江一族の毛利氏が出る前は、源頼朝の縁者が毛利荘にいたと言う事になる。
源頼朝の死後、毛利頼隆(若槻頼隆・毛利三郎)は信濃国若槻庄の所領を本拠とした。
いずれにせよ、源氏の毛利荘は大江氏に譲られた格好になったのであろう。
例えば、森可成や森蘭丸の森氏も源義隆(森冠者)の子孫となる。
このように、厚木の毛利荘はほんとうはスゴイところだと言えよう。
行き方・アクセスは、下記の地図ポイント地点。
南側から入れる境内の中に車を止められるスペースもある。
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