北条時頼の解説~得宗家の地位を固め民政に尽くした名君

北条時頼

北条時頼とは

北条時頼(ほうじょう‐ときより)は嘉禄3年(1227年)、六波羅探題北方を務めた北条時氏と、松下禅尼の次男として生まれました。同母の長兄に経時、父方の祖父に3代執権・北条泰時がいます。

北条時頼は誕生の3年後に時に父を亡くして祖父・泰時のもとで育てられ、嘉禎3年(1237年)に11歳で時の征夷大将軍・藤原(九条)頼経から一字を賜って時頼と名乗りました。
北条泰時はこの孫を高く評価、溺愛して鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬を任せ、彼の勤勉に対しては村一つを褒賞として与える程でした。


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その頼もしく、優しい祖父だった泰時も仁治3年(1242年)に逝去し、経時が執権職を継ぐことになり、時頼は兄を助けて幕府に仕えます。寛元元年(1243年)に左近将監、翌年には従五位上と官位を高めた時頼は、時をほぼ同じくして病弱になっていた兄の名代を勤めるようにもなっていきました。

寛元4年(1246年)、経時の病が悪化したことで北条一門による秘密の談合が開催され、時頼に執権職が譲られます。それが、『神秘の御沙汰』と言われる会議です。経時が同年に出家、そして亡くなった事で得宗家を率いる事になった時頼でしたが、その前途に立ちはだかったのが、反北条派の武将達でした。

政治と戦いに明け暮れた37年の生涯

幕府の最高政務機関たる評定衆を構成していた三浦泰村、毛利季光らは時頼不支持派で、それに加えて寛元4年(1246年)に鎌倉幕府4代将軍だった藤原頼経が関与したとされる宮騒動が起こります。この件は頼経を京都へ強制送還し、共犯者の北条(名越)光時・時幸兄弟が降参して決着がつきますが、翌年には宝治合戦が勃発、時頼は反北条だった泰村率いる三浦氏をはじめ、千葉秀胤や毛利季光らを安達氏の協力で滅ぼしました。これが宝治合戦です。

さらに時頼は千葉秀胤を追討、その一門を自害に追い込んで脅威となる御家人を討ち滅ぼすと、5代将軍・藤原頼嗣(頼経の息子)を京都に追放し、その後継者として後嵯峨天皇の長男である宗尊親王を6代将軍に奉戴、北条重時(泰時の子)を連署に迎えるなど鎌倉における地盤固めに奔走します。

そうした強権を振るう事が可能な体制を盤石にする一方、時頼は建長元年(1249年)に裁判の公正化を図った引付衆を設置し、京都大番役(地方武士が都を警護する役目)の短縮、民衆への救済措置を積極的に採用するなど善政を行いました。これは強権に対する御家人の不平を抑えるため、ないしは自分の立場の弱さを自覚した故の善政とも言われますが、彼の政治はおおむね好評で、北条氏による政権は安定していきます。

信仰心に篤かった時頼は神社仏閣の保護や建立にも熱心で、鎌倉の名刹として名高い建長寺が建立されたのも建長5年(1253年)、時頼が南宋の蘭渓道隆(大覚禅師)を招聘した事によるものです。

こうして政治にまい進していた時頼でしたが、康元元年(1256年)に麻疹や赤痢と言った重病を患い、正室・葛西殿(北条時宗の母)の兄である北条長時を6代執権として自らは出家して覚了房道崇、またの名を最明寺入道と号しました。

義兄を執権に任命し、嫡子である時宗を兄である北条時輔を差し置いて息子の中で一番の序列にするなど、出家後も時頼の手に実権は握られており、この出来事は得宗専制の始まりとなったと言われています。病に侵されながらも北条一門による安定した体制を目指して歩んだ時頼でしたが、弘長3年(1263年)に最明寺北亭の阿弥陀如来像の前で座禅を組みながら、37歳の生涯を終えました。

後に北条時頼は武家、とりわけ北条氏による独裁的な体制を樹立したことなどから新井白石、本居宣長と言った江戸期の政治家や国学者には批判された時期もありました。しかし、武士や民衆に優しい政治を行った名君として称えられ、時頼には『廻国伝説』が生まれ、今も能など伝統芸能で語り継がれる『鉢の木』(※1)をはじめ、清廉ながらも人間味に富んだ人柄が『徒然草』(※2)に記載されて教科書やコミックなどでも親しまれ、今もなおその人気と魅力を放ち続けています。


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(※1)雪の日に旅僧に身をやつした時頼を哀れんだ貧しい武士が、鉢植えにした梅の木を薪にしてもてなし、その思いやりと真心を褒めて報いたとする伝承 

(※2)215段に大仏宣時との酒盛り、216段に足利義氏の接待を受けた時のエピソードが記載される

(寄稿)太田

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