新井白石 閑院宮家創設に尽力するなど 今だから知っておきたい白石の「正徳の治」を解説

新井白石


新井白石(あらい-はくせき)は、明歴3年(1657年)2月10日に新井正済の子として江戸に生まれた、江戸時代中期の政治家・朱子学者である。
学者としての才能を見いだされ、無役でありながら幕政を担うまでに昇り詰めたために、何かと敵が多かった白石だが、妥協を許さない性格で「改革の鬼」と恐れられ、六代将軍・徳川家宣(とくがわ-いえのぶ)の下で正徳の治(しょうとくのち)を主導した。
白石の信念を貫いた生涯と、正徳の治について解説していきたい。

火の子の誕生

白石は明歴の大火の翌日に避難先で生まれたといわれている。
父・正済の仕えた、久留里藩主・土屋利直は、聡明な白石を自分の子のように可愛がったという。
しかし幼少から気性が激しく「火の子」とあだ名されるほどであったといわれている。
これからの波乱の人生を象徴するような逸話である。

土屋家を追われ甲府綱豊に出会うまで

藩主・利直の死後、跡を継いだ土屋頼直は狂気の振る舞いがあり、そのため正済は出仕を拒否し続け、新井父子は土屋家を追放された。
その後白石は、大老である古河藩主・堀田正俊に仕官するが、その堀田が若年寄の稲葉正休に、殿中で刺殺されるという事件が起こった。
それにより堀田家は次々と転封を命じられ、藩財政が悪化し、白石は自ら退き学問に志を立て、これからしばらくは不遇の時を過ごすことになる。
ある日、豪商・河村瑞賢が白石を訪ね「跡を継いでくれないか」という誘いがあったが、白石は断っている。
「自分は学者である以上、名声を得るのは学問でしかない」といったところであろうか。
その後も白石は独学を続けたが、29歳の時に朱子学者・木下順庵の門下に入る。
順庵は白石の学才を高く評価し、甲府徳川家への仕官を推挙したのは、白石37歳の時であり、甲府藩に仕えた白石は、藩主・徳川綱豊が将軍・家宣となるまで、学問の師として帝王教育を施す。

綱豊が六代将軍となる

五代将軍・徳川綱吉は、長男・徳松が夭折するなどあり、結局世継ぎには恵まれなかった。
綱吉は綱豊を養子として迎え、綱豊は江戸城西の丸に入り、名も家宣と改めた。
宝永6年(1709年)に綱吉が死去し、家宣が六代将軍となったのは、白石52歳の時である。
白石は、家宣の政治顧問として、側用人・間部詮房(まなべ-あきふさ)とともに江戸城本丸に移り幕政を主導する。
綱吉治世の後半は、宝永の大地震などが重なり不運であったが、綱吉の死後に綱吉治世の結果を問題視し、後始末をしたのが正徳の治である。

生類憐れみの令の廃止

綱吉の死後、白石や間部が着手したのは、天下の悪法といわれた生類憐れみの令の廃止である。
綱吉は、自身の死後も法令の継続を強く望んだが、死後の10日目には捨て子の禁止や、病人の保護などを除く法令の廃止が決定されている。
しかし捨て子の禁止や、病人の保護などの法令を継続させたのは、白石の朱子学者としての思想であるといってよい。
正徳の治は、江戸幕府における文治政治を完成させた。

武家諸法度の改正(宝永令)

武家諸法度は、幕府が大名統制のために制定した基本法である。
武家諸法度は、将軍代替わりの際に改定が行われており、改定は林家が担っていたがその林家を差し置いて白石が宝永令を起草した。
特徴としては、文章は和文体で、これも朱子学者としての思想が反映されたものとなり、文治政治を完成をさせるための礎としたものが宝永令といえる。

閑院宮家の創設

閑院宮家(かんいんのみやけ)は、白石が皇統を維持する目的で創設を提言し、興された宮家である。
白石は皇統の断絶を危惧し、それまでの世襲親王家の、伏見宮、桂宮、有栖川宮に続く第四の世襲親王家の創設により、皇室の存続を万全なものとしようとした。
経済的に貧かった天皇家は、男子が多く生まれても新たに宮家を増やせる状況ではなく、天皇家や宮家の嫡子以外の子女は、出家する慣例となっていた。
さらに既存の宮家は、天皇と遠い血筋となっていたこともあり、白石は家宣に新宮家創設を提言し、幕府が千石の家領を献上するという形で閑院宮家創設が実現した。
しかし安永8年(1779年)の後桃園天皇の崩御により、これまでの皇統が完全に断絶したことで白石の危惧が現実のものとなっている。
次代の光格天皇は閑院宮家から即位し、現在の天皇家や宮家はその直系にあたる。

朝鮮通信使の待遇簡素化

江戸時代の朝鮮通信使は、世継ぎの誕生や将軍就任に際しての祝賀に派遣される使節団である。
当初は人数も多くなく、応接も簡素ですんだが、しだいに人数も増え莫大な費用がかかった。
使節団の来日は、幕府の権威を示すうえでは役立っていたが、白石は朝鮮通信使にかかる費用について簡素化という形で見直した。
理由としては、幕府財政の逼迫と、京都からの勅使の応接と比べ、朝鮮通信使の応接が良いことを問題視したためである。
また白石は、将軍と朝鮮国王を対等な立場にすべきと考え、将軍の呼称を変更した。
外交上では、征夷大将軍である将軍という呼称は用いられることはなく、これまでは「日本国大君」が用いられてきたが「日本国王」と改め、朝鮮国王と釣り合いを取った。

勘定吟味役の再設置

家宣は朱子学者・白石に、幕府財政も託した。
勘定吟味役は、綱吉時代からの勘定奉行・荻原重秀(おぎわら-しげひで)に独断で廃止された役職であるが、白石が家宣に勘定吟味役の再設置を提言し、認められた。
勘定吟味役は、勘定所の職務の監査を担った。
つまり、勘定吟味役を置くことで勘定奉行である荻原の行動の監視し、独断を止める狙いがあったと思われる。
白石の荻原嫌いは相当なもので、後に白石が著した「折たく柴の記」で執拗に批判をしている。
そのような有り様で白石は、荻原の罷免を強く求めていたが、家宣は逼迫する幕府財政の中で、財政通である荻原の罷免だけは反対した。
あくまで朱子学者として家宣に仕えた白石には、改鋳政策に代表される荻原の政策は、全く理解できなかったのだ。

正徳の改鋳

元禄期になると、経済の拡大により貨幣の供給が必要となっていたが、金山や銀山の枯渇や、貿易による金銀流出により、貨幣が不足しデフレ気味であった。
また、この時の幕府財政は、綱吉の浪費癖や元禄の大飢饉などの対応で危機的状況にあった。
そこで荻原は、金銀の含有量を減らし発行量を増やす改鋳政策を行い、市中に貨幣を供給し経済を循環させるとともに、多額の改鋳差益を得て幕府財政を一時的に好転させている。
宝永期になっても荻原は独断で改鋳を行った結果、経済の活性化には役立っていたが、宝永の大地震・宝永の大噴火の発生で、幕府財政はまた窮地に陥り、物価上昇も招いた。
それを見ていた白石は、荻原の改鋳政策を真っ向から否定した。
潔癖な朱子学者には、天変地異が度重なるのも、荻原の悪政による結果であると思ったのかもしれない。
幕府にとって財政問題は待ったなしの中で、白石は荻原の罷免を求め続け、家宣はようやくそれを受け入れ、白石の独自の改鋳政策が始まった。
白石は、元禄・宝永の改鋳による物価上昇に対し、金銀の品位を良質な慶長期に戻す正徳の改鋳(しょうとくのかいちゅう)を行った。
白石の改鋳政策は、物価を安定させる狙いがあったが、貨幣の信用を取り戻すことを重視した政策でもあった。
貨幣の量を減少させたとしても、何より貨幣の信用を回復できれば幕府の政治全般の信用も回復できると考えた。
しかし、この改鋳政策は急激な物価下落を招き、しばらく江戸は深刻な不況に見舞われる。

海舶互市新例の制定

海舶互市新例(かいはくごししんれい)は長崎新令とも呼び、白石が長崎貿易を制限する目的で制定した法令である。
白石は長崎貿易で海外に流出した金銀の量を調査し、家宣に提出した。
それによると100年間で国内産出の、金で4分の1、銀で4分の3が流出したという。
海舶互市新例は貿易量を縮小し、金銀の流出を防止する狙いがあったが、貿易制限はこれ以前も行われており、白石の海舶互市新例は信牌(長崎への入港許可証)を清船に交付し、密貿易を防止するなどの長崎行政の改革という側面が大きい。

家宣の死去から晩年の白石

病弱だった徳川家宣は死の直前、将軍継嗣について白石と間部を呼び、相談している。
家宣の嫡子・鍋松は幼く、鍋松が将軍家を継いだ場合、世の乱れに繋がる恐れがあると家宣は危惧したが、白石は間部を後見人として、自身が引き続き幕政を担い鍋松を支えると主張し、鍋松の将軍家相続が決定した。
正徳2年(1712年)に家宣は死去し、鍋松が七代将軍・徳川家継となると途端に、白石と間部に対する風当たりが強くなる。
以前から白石たちに対する不満の声は幕閣から上がっていたが、白石の政策をことごとく採用して、後ろ盾となったのが家宣であった。
その家宣亡き後は、政策など通るはずもなく、白石や間部を引きずり下ろしたい勢力の嫌がらせもあり、江戸城本丸は機能を失い、二人はもどかしい思いをしたに違いない。
病弱だった家継も、享保元年(1716年)にわずか8歳で夭折したことで、正徳の治は終わりを告げ、白石は江戸城を去った。
白石と間部は、辞表を提出したが受理されず罷免という結末であった。
白石は千駄ヶ谷に移り住み、学問と執筆活動をしながら余生を送ったという。
江戸城を去ってからの余生が、白石にとって最も穏やかであった。
新井白石、享保10年(1725年)5月19日、江戸で死去、享年69歳。
高徳寺に白石の墓がある。(中野区上高田1-2-9)

(寄稿)浅原

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