徳川綱吉とは~3分でわかる5代将軍とお犬様の関係「生類憐みの令」

徳川綱吉

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徳川綱吉(とくがわ-つなよし)は、江戸幕府の5代将軍となりますが、その出自や業績などを分かりやすく簡単に明記したいと思います。

徳川綱吉は3代将軍・徳川家光の4男として1646年1月8日に江戸城で生まれました。
幼名は徳松です。
母は、京都出身で八百屋の娘とも伝わるお玉(桂昌院)です。
このお玉は、徳川家光の側室・お万の方に仕えていましたが、春日局に見いだされて、徳川家光の側室になっていました。

父・徳川家光が1651年に死去する直前、徳川綱吉は僅か5歳のときに、近江、美濃、信濃、駿河、上野より合計15万石を与えられており、兄の徳川家綱が4代将軍に就任します。
そして、母の玉(桂昌院)は、出家して筑波山の知足院に入りました。

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徳川綱吉が7歳になると、従三位・左近衛中将・右馬頭を叙任しています。
1661年、15歳の時に、上野・館林藩主となって館林城25万石に加増され「館林宰相」と呼ばれました。

館林城・三の丸

1670年には、牧野成貞を家老に抜擢していますが、家臣の80%も江戸の神田に詰めており、徳川綱吉本人も館林城に入ったのは、日光参詣の帰り道に1回だけであったと言います。

1680年5月、兄で将軍職を務めていた徳川家綱が病に倒れると、安中藩主で老中の堀田正俊が、対立していた大老・酒井忠清に対抗するため、次期将軍に徳川綱吉を推挙しました。
長兄・徳川家綱には子が無く、他の兄も既に亡くなっていたため、4男の弟・徳川綱吉に白羽の矢が立った訳です。

こうして、兄・徳川家綱の養嗣子となると、江戸城・二の丸移り、兄が40歳で死去すると、内大臣・右近衛大将となり将軍宣下を受けました。
そして、堀田正俊を大老に任命し、大老だった厩橋藩主・酒井忠清には病気療養を命じる形で解任しています。
また、筑波山にいた母・桂昌院を江戸城の三の丸に呼び戻すと、のち儒学の親孝行に影響されて、女性最高位となる従一位の官位を朝廷より賜るなど特別に計らいをしました。

堀田正俊は牧野成貞と「天和の治」と呼ばれる政治を執り行ない、低い身分からも有能な人材を登用して、財政改革などを行いましたが、これは「儒学」を重んじていた徳川綱吉が文治政治を推進したことによります。
学問をする場所として湯島聖堂を建造し新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳洲・山鹿素行らの学者を輩出した他、天皇や公家の所領も倍増させて、幕府の権威向上に努めました。

このように前半は善政を敷いていましたが、1684年に大老・堀田正俊が暗殺されると、徳川綱吉は側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中らを遠ざけるようになります。

そして、徳川光圀(水戸黄門)の反対も押し切り、1687年には、殺生を禁止する法令「生類憐みの令」(しょうるいあわれみのれい)を発布したことで、歴史的に有名な将軍となってしまいます。
将軍とお犬様の関係ですが、諸説あります。
その中で、拾ってみますと、徳川綱吉に跡継ぎがいないことを心配していた母・桂昌院が、寵愛していた僧の隆光僧正の助言を受けたものと、将軍が犬年生まれなので犬を保護したともされています。

最初は、将軍が通行する道では、犬・猫を自由に放しておくようにと言う程度の法律でしたが、徐々に厳しくなります。
例えば・・・。

魚や鳥を生きたまま食用として売らない事。
犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にするのを禁止。
金魚の飼育が禁止された江戸の庶民は、藤沢の遊行寺の池に金魚を放した。
大久保・四谷の住民を強制退去させ、犬を保護する小屋が建てられた。広さは東京ドーム20個分。
犬虐待や犬殺しを密告した者には賞金を支給。
ドジョウ・ウナギの取引禁止。
もちろん、鷹狩りも禁止されていました。

最終的には「殺生はダメ」と言う考え方に至るまで、24年間の間に合計135回も追加・改正され、貝類・虫類まで保護されました。
なお、動物に対してだけと言う事ではなく、捨て子を禁じたなど良い面もあり、捨て子や病人の保護は、生類憐みの令が廃止されたあとも続けられたと言います。

要するに、徳川綱吉は動物愛護の精神にのっとれば、人間の生活においても忠孝に励み、召使(使用人)に対しても情けを掛け、親・兄弟や親戚が皆仲良く暮らせる世の中になると考えたかも知れません。
犬を飼っても簡単に捨てる人も多かったため、まずは身近な「犬」と言えども大切に接しようと訴え、庶民の感情を変えようと試みた気も致します。

ただし、江戸の庶民などには通じなかったようで、悪政だと不満も募らせていた訳で、そんな中、1701年、赤穂藩主・浅野長矩(浅野内匠頭)の即日切腹と言う判断もしています。
これは、重んじていた朝廷への儀式が台無しにされたと言う事が大きいようです。
混沌として世の中だったこともあり、赤穂浪士の吉良上野介屋敷への討ち入りでは、下町の庶民も拍手喝采となった訳です。

そんな徳川綱吉ですが、1709年1月10日に成人麻疹(はしか)にて死去しました。享年63。

死因については、心を病んでいた正室・鷹司信子が、御台所付御年寄・伊豆局に頼んで無理心中したとする説もあり、ほぼ同時期に亡くなっています。

後継者になっていた甲府徳川家の徳川綱豊が6代将軍になると、生類憐れみの令はすぐに廃止されました。

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