柳沢吉保~いち藩士から幕臣として大出世した旧武田家臣


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柳沢吉保(やなぎさわ-よしやす)は、館林藩士・柳沢安忠の嫡男として、1658年12月18日、江戸市ヶ谷にて生まれた。
母は、側室・佐瀬氏の娘・了本院。
父・柳沢安忠は駿河大納言・徳川忠長に仕えた旗本であったが、この柳沢家は戦国時代のとき武田信玄の家臣団である「武川衆」であった。
柳沢吉保の祖父・柳沢信俊は、1572年、山県昌景の配下として三方ヶ原の戦いに参戦し、1575年には武田勝頼に従い、長篠の戦いにも加わっている。


1582年に武田家が滅亡したあとは、他の武川衆とともに徳川家康に仕え、1582年8月16日、甲斐国柳沢郷にて72貫800文を知行した。
1585年の真田昌幸相手の上田城の戦いでは、妻子を徳川家に人質として出して、大久保忠世のもとで戦功を挙げ、感状も受けている。

1589年には、甲斐の甲府城番となり、領地も加増されていた。
1590年、豊臣秀吉小田原攻めのあと、徳川家康が関東に移封となると、武蔵・鉢形で230石となった。
柳沢吉保の父・柳沢安忠は大阪冬の陣で活躍し、徳川忠長が切腹したあとは、館林藩主・徳川綱吉の家臣になっていた。

1672年、柳沢吉保と父・柳沢安忠は、甲斐の恵林寺で行われた武田信玄百回忌の法要で、奉加帳に名を連ねている。
1673年に元服し、1675年に家督を相続すると、柳沢保明(やすあき)と改名し、小姓組番衆となった。
そして、1675年12月18日、母方の親族である曽雌盛定の娘・曽雌定子を正室に迎えている。

1677年、妻・曽雌家の菩提寺である龍興寺の竺道祖梵から禅を学んだ。

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藩士から幕臣として出世

1680年、館林藩主・徳川綱吉が、兄・徳川家綱(4代将軍)の後継の5代将軍として江戸城に入ると、21歳の柳沢吉保も幕臣となって小納戸役を命じられると言う転機が訪れ、徳川綱吉から重用されどんどん出世して行く事になる。
徳川綱吉は大老の酒井忠清を罷免し、自分を将軍に推挙してくれた老中・堀田正俊を大老に就任させ「天和の治」と称される各種改革を断行した。

1681年、母(了本院)も江戸へ呼び寄せたが、この際に付き従っていた侍女・飯塚染子は、のちの1686年頃に柳沢吉保の側室になっている。
なお、飯塚染子は、徳川綱吉の愛妾で、柳沢吉保に下された拝領妻であったともされ、嫡男・柳沢吉里は徳川綱吉の隠し子ともされる噂が当時からあったが、現在では否定されている。
また、別の側室には、権大納言正親町実豊の娘・正親町町子もいる。

1684年、堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると徳川綱吉の悪政が始まり、1685年には最初の生類憐みの令を出した。
なお、徳川光圀が徳川綱吉の後見となったため、副将軍とも呼ばれた。

1688年11月12日、将軍親政のために新設された側用人に29歳の若さで就任すると、1万2000石となって大名に列し、廃城となっていた上総・佐貫城主となった。
ちなみに、牧野成貞も同時に側用人となった。
翌年1689年には松尾芭蕉が奥の細道の旅に出発している。
1690年3月26日には、2万石の加増となり、以後、常盤橋の柳沢邸には、将軍・徳川綱吉が58回も「御成」をしたと言う。

1692年11月14日には3万石、1694年1月7日には川越藩主72000石となり、12月9日には老中格と侍従を兼務した。
そして、1698年7月21日、本来であれば大老が任ぜられる左近衛権少将となる出世を遂げた。

1694年1月7日にも1万石の加増を受けて、川越城を拝領。

1701年3月14日、赤穂藩主で勅使接待役だった浅野内匠頭(浅野長矩)が、江戸城松之大廊下にて吉良上野介に対して刃傷におよび、即日切腹となる。
これに対し、柳沢吉保ら幕府は吉良上野介に何の咎めもなかった。

柳沢吉保は1701年11月26日、松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗った。
柳沢吉保は朝廷にも工作し、1702年には、桂昌院(徳川綱吉の母)が、朝廷から従一位を贈られている。
また、この年、妻の柳沢定子がも、江戸城大奥にて将軍御台所・鷹司信子と拝謁したが、大名の妻の登城は珍しい。

1702年12月15日未明、赤穂浪人大石内蔵助(大石良雄)らが、吉良上野介の屋敷に討ち入りし、暗殺した。
この仇討に対して、、柳沢吉保ら幕府は赤穂浪士に切腹を命じたが、吉良家も領地没収となっている。

1704年12月21日、徳川綱吉の後継として甲府・徳川家の徳川綱豊が内定すると、空席となった甲府城と駿河国内に所領を与えられて、45歳で15万石の大名となった。
1705年3月12日、駿河の所領を返上すると、代わりに甲斐国にて巨摩・山梨・八代の3郡を与えられている。
そして、1705年4月10日、甲斐の恵林寺にて武田信玄の百三十三回忌の法要を執り行った。

1706年1月11日、大老格にまで出世し、権勢を誇った。学問の奨励し、荻生徂徠の登用にど、文治政治の推進者として評価される。
1707年11月16日、富士山が宝永大噴火となり、江戸の街にも降灰があり影響した。


1709年2月19日、将軍・徳川綱吉が薨去すると状況は一変し、新将軍の徳川家宣と、その儒者・新井白石が権勢を握るようになり、生類憐みの令は即刻廃止。
柳沢吉保は同年1709年6月3日、幕府の役職を辞して、家督を長男・柳沢吉里に譲り江戸本駒込の邸宅にて隠居し六義園の造営などを行った。

そして、1714年11月2日に死去。享年57。

恵林寺の武田信玄の墓の横に、柳沢夫妻の墓がある。

柳沢吉保の墓

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