武田信玄の墓はどこにあるのかに迫る~躑躅ケ崎館跡近くの武田信玄の墓【武田信玄の墓シリーズ】

野田城攻めを行った後、体調が悪化した武田信玄は、軍勢を甲斐に引き上げさせましたが、その途中、1573年4月12日、武田信玄は信州伊那の駒場で53歳の生涯を閉じたとされます。

武田勢が野田城を陥落させた間、武田信玄は前線で指揮を取らず、長篠城鳳来寺に1ヶ月くらい滞在していたようですので、すでに病状が悪かったのでしょう。
そして、体調が好転しないため、武田勢は西上を中止して、恐らくは、伊奈街道にて田峯城、設楽(田口)の福田寺、津具を経由して甲斐への帰路につき、三州街道(国道153号線)を伊那に向かったものと推測されます。
信濃に入ると、根羽(ねば)、平谷(ひらや)、浪合(なみあい)を通過しましたが、駒場(下伊那郡阿智村)に到着する手前付近で落命したと言う事になります。


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駒場は昼神温泉近くの中央高速「阿智PA」がある付近ですね。江戸時代にも宿場町がありました。
しかし、亡くなった場所は根羽、平谷、浪合と言う説もあり、実際、根羽には信玄公の五輪塔(信玄塚)も建っています。
ただし、根羽は江戸時代の寛文年間(1661年~1673年)頃、信玄公100年の供養として宝篋印塔を建立した模様です。

根羽の信玄塚~武田信玄が命を落とした場所か?

このように武田信玄が亡くなった場所としては「駒場説」が当代記と御宿監物の長状、「浪合説・平谷説」が徳川実紀、三河物語、三河風土記茎葉集、「根羽説」が甲陽軍艦、熊谷家伝記、「田口説」としては野田城記、野田実録などになります。

武田信玄の墓

躑躅ケ崎にある武田信玄の墓(武田信玄火葬塚)は、武田神社から徒歩12分と、ちょっと離れた住宅街の中にあります。

武田信玄の墓

行き方は下記の地図をご参照願います。
駐車場はない、狭い道です。私の場合は、目の前の児童教育センターさんの大きな駐車場を短時間拝借させて頂きました。ありがとうございました。
また、甲府駅北口にある電動アシスト付き自転車のレンタサイクルを活用して、躑躅ケ崎館跡と一緒に巡ると良いです。
地図のポイント地点は駐車場の入口です。

実はこの円光院に近い場所は、武田家臣土屋昌続(土屋右衛門、土屋右衛門昌次)の邸内でした。
土屋昌続は三枝昌貞(三枝守友)、曽根昌世、武藤喜兵衛(真田昌幸)、甘利昌忠、長坂昌国ら「奥近習六人衆」と呼ばれた、武田信玄の側近の1人です。
武田信玄は「3年の間、死を隠すように」と遺言したとされますので、その時にでも土屋昌続に自分の遺骨の処理も命じていた可能性が有りますね。
土屋昌続は嘆き悲しみながらも武田信玄の遺灰・遺骨を密かに甲府に持ち帰ったようで、自分の邸宅内に埋葬した模様です。

この後、この土屋昌続館跡には「魔縁塚」があったようで、江戸時代になるとこの塚を崩して平らにしようと鍬を入れると、気絶をしたり即死したりするとされ、地元の民も近づかない土地になっていたと言います。
開墾などの為、塚を街中から他の場所に移そうとした甲府代官・中井清太夫が、たたりを背負い1779年に自分で堀り進めて見ると、深さ7mくらいのところに「石棺」が埋まっているのを発見しました。
その石棺には「法性院信玄大居士 四月十二日葬」と刻まれていたので、中井清太夫は徳川幕府に武田信玄の墓を発見したと報告したのです。
そして、武田信玄の墓である可能性が分かった事から、東花輪村、田中喜衛門、西花輪村、内藤正助、外52人の武田家の旧臣らが大石碑を建てたのが現在の墓石です。
この中井清太夫は天明の飢饉対策として「じゃが芋」を九州から取り寄せて、甲斐に広めると言う善政を敷いた事でも知られる人物です。

武田信玄の墓

武田信玄はどこで亡くなったのか?

武田信玄の墓とされる場所は何箇所かあります。
公式には菩提寺である恵林寺にある武田信玄公の墓ですが、恵林寺にて武田勝頼が葬儀を行ったのは、武田信玄の遺言どおりに3年後ですので、実際の遺骨などが恵林寺の墓に納められているとは考えにくいです。
もちろん、遺品や遺骨の一部などが分納されている可能性は充分にあると存じますが・・。

恵林寺以外ですと、山梨では大泉寺、長野では長岳寺と竜雲寺にも墓があり、武田信玄の遺体は諏訪湖に沈められたと言う伝承もあります。
あとは、高野山京都・妙心寺にもありますが、こちらは供養塔と言えるでしょう。

愛知県設楽町にある福田寺にも武田信玄の墓があります。
まさに、長篠城から北上した国道257号線沿いでして、甲斐に戻る途中、福田寺にて療養・休憩(1泊?)した模様で、寺の記録によると「天正元年六月二十六日甲州太守武田大膳太夫信玄公法性院殿機山玄公大居士 当所尊体を埋む」とあるようです。
天正元年と言うと、1573年ですので年は合うのですが、武田信玄が亡くなったとされる4月12日と日にちがだいぶ合いません。
野田城の戦いも2月16日に野田城主・菅沼定盈が武田勢に降伏しており、その後、武田勢が甲府にひき上げる際、3月10日に人質交換していますので、憶測になってしまいますが、馬場信春とも縁があったこの福田寺は、その後、武田信玄が亡くなったとの噂を聞き及び、位牌と墓を密かに作って、福田寺に泊まった際にお礼として残された遺品などと共に供養したのかな?と感じます。

長岳寺は、まさに駒場にある寺で、駒場の山中で落命した武田信玄の遺骸を安置したと伝わります。
長岳寺の住職・六世裕教法印は、武田信玄の義理の兄弟、下条家一族と言う縁もありました。
信玄公の兜の前立てが寺宝で、馬場春信らがこの長岳寺の裏山で密かに火葬したと言う話もあり、後年に建てられた供養塔には火葬した地の灰が納められていると言います。

長岳寺についてはこちら

主な遺灰は従軍僧・北高和尚(北高全祝大和尚)が持って帰国したようです。
なお、火葬塚は安布知神社の後方の山の中にあるらしいです。

では武田信玄の本当の墓はどこなのか?

もひとつ、龍雲寺(竜雲寺)は佐久にありますが、武田信玄が佐久方面に出陣した際には戦勝祈願で必ず立ち寄った寺です。

龍雲寺(竜雲寺)

実はこの龍雲寺の和尚は、武田勢の軍に同行していた北高和尚(北高全祝大和尚、北高禅師)なのですね。
上杉景勝直江兼続が幼少期に雲洞庵にて学んだ際の和尚も、この北高和尚です。
その後、甲府の大泉寺の住職を経て、武田信玄が1560年に竜雲寺へ迎えていました。
そして、いよいよ西上を実行する前に武田信玄はこの北高和尚に依頼し、多勢の僧侶が道場に籠もって大規模な必勝祈願の千人法憧を、1572年4月~7月に掛けて執り行ってもらっていますので、一大決心をして1572年10月3日に甲府を発ったことが伺えます。

竜雲寺では1931年(昭和6年)に、武田信玄のものと推測される遺骨が発掘されました。

竜雲寺、武田信玄の墓

現在、本堂横にある信玄公霊廟に副葬品と共に納められています。
その遺骨と共に発掘された骨壷の中にあった袈裟の環に「大檀越信玄公、干時天正元年4月12日於駒場卒、戦時為舎利納○北高和尚頂礼百拝」と記載されていたそうで、駒場での火葬に立ち会った北高和尚が、武田信玄の遺灰・遺骨を持ち帰ったと言う話と符号します。
昔の火葬は今のように高温技術がある訳ではないので、灰と言うよりは骨が多数残っていたとしても不思議では無いですからね。
遺骨の全部と言う事ではないでしょうが、一部は竜雲寺にもたらされたのでしょう。

龍雲寺(竜雲寺)

龍雲寺(竜雲寺)にある武田信玄の墓は、下記写真の本堂右脇の欄干をクグッて抜けた先にあります。

龍雲寺(竜雲寺)

甲陽軍鑑では「自分の葬儀は無用であり、遺体は3年後の4月12日に甲冑を着せて諏訪湖に沈めてほしい」とありますが、諏訪湖に武田信玄の遺骸を沈めたと言う伝承は、一部の灰などを「散骨」すると言うのに近い行為があったのかも知れません。そのため、火葬もしていない遺骸そのものを諏訪湖に沈めたと言うのは信憑性に欠けます。

もちろん、武田家臣らがその遺骨の一部と言うよりは大半を甲府に持ち帰ったことでしょう。武田信玄の本拠地ですからね。
しかし、3年間、死を伏せる訳ですがら、躑躅ケ崎館や、菩提寺・恵林寺など、公の場所に遺骨を納める訳にはいきません。
織田や北条などの密偵(忍者)に知られてしまいますからね。
そのため、躑躅ケ崎付近に屋敷を構えて板家臣の中で、土屋昌続が代表して庭先に埋葬して供養したのが、現在の「武田信玄公の墓」地であると言う事は充分考えられます。
その武田信玄の墓の場所こそが、側近(小姓)だった土屋昌続の館があった場所なのです。

皆様におかれましても、色々とご意見・ご感想などあるかと存じますので、遠慮なくコメントをお寄せ頂けますと幸いに存じます。

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コメント

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  1. さや

    甲斐善光寺。

  2. 失礼しました、甲斐・善光寺はこちらです。
    https://senjp.com/kai-zenkouji/