直江兼続~戦国の上杉家を支えた智勇兼備の名将(詳細年表)


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戦国時代に主君を支えた優秀な家臣がいく名かおりますが、その中で最も優秀だった一人に入るのが忠義の臣、智勇兼備の名将と言われる「直江兼続」です。そんな直江兼続について、できる限り詳細に年表形式にて記載してみました。

直江兼続  (なおえ かねつぐ)  1560年~1620年1月23日

名を上げるまでには諸説あるが、1560年、越後・長尾家臣の樋口兼豊(樋口惣右衛門兼豊)の長男として生まれたとされ、幼名は与六と言った。母は信州・泉重蔵の娘で、名は藤(ふじ)と考えられる。
別の説では藤は直江親綱の娘、またまた別説では泉重歳の娘であるが名は蘭子(らんこ)とする説もある。
1560年と言えば、織田信長が桶狭間で今川義元を破った年であり、石田三成も1560年生まれとされている。
この頃、 直江兼続の父・樋口兼豊は、上田衆として長尾顕景(のちの上杉景勝)の実父である長尾政景に仕え、薪炭用人として、坂戸城(六日町)の台所まわりで働いていたとされる。(諸説有)
坂戸城は現在、上越新幹線や関越自動車道も通る、交通の要所で、当時、越後から関東へ出る際の戦略上でも上杉家に取って重要な地点であった。
上杉謙信の姉で、坂戸城主・長尾政景に嫁いでいた仙桃院が、あるとき坂戸城内で父・樋口兼豊と一緒にいた幼い与六が長尾顕景と共に学んでいるのを見て、その聡明さに目をつけたようだ。
1564年、坂戸城主・長尾政景が野尻湖にて琵琶嶋城主・宇佐美定満と共に溺れて死去する事件が起こる。この時、家督を継ぐべき長尾政景の子、長尾顕景(のちの上杉景勝)は、まだ9歳だったこともあったからだろう。
長尾顕景は上杉謙信の養子になることとなり、上杉氏の本城・春日山城に入った。その際、仙桃院の推挙によって、4歳前後の与六は小姓として春日山城にて長尾顕景(のちの上杉景勝)の近侍となったと言う説が有力だ。
この辺りは、一生涯独身だった上杉謙信の跡目を補う政略的な判断もあったのだろう。
長尾顕景(のちの上杉景勝)は1566年に初陣を果たしているが、樋口兼続の元服や初陣など若かりし頃の行動は良くわかっていない。

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その後、1570年、北条氏康と和睦した際、小机衆を率いていた北条氏康の七男・北条三郎(北条氏秀)が、人質として上杉家に送られたが、その後、上杉謙信が養子にした。
上杉謙信は美男だった北条三郎を大変気に入ったようで、上杉景虎の名を与えるなど、上杉家一門、そして後継候補として厚遇したようだ。ちなみに、仙桃院の長女(長尾顕景にとっては姉で名前不詳)が、上杉景虎の正室になり、2人は春日山城の二の郭に住んだ。
1575年、長尾顕景は名を上杉景勝に改めると共に、上杉謙信から弾正少弼の位を譲られた。
上杉謙信は1576年に越中を平定。1577年には織田勢が加賀に進軍。柴田勝家18000を先発させ、織田信長自身も30000で出陣したが、迎え撃った上杉謙信勢約20000と手取川の戦いで激突。上杉謙信は織田勢に大勝したと言われている。
1578年3月、関東遠征と考えられる侵攻準備のさなか、1578年3月13日に上杉謙信が死去(享年49)。脳卒中と言われており、突然の死であった為、後継者が決まっておらず、上杉景虎と上杉景勝の間で家督争いに発展する。
上杉景虎は御館に籠もって抵抗したので、御館の乱(おたてのらん)と言う。
上杉景勝は春日山城の本丸を占拠し、遺言により自分が後継者であることを近隣の諸氏に報じた。以後、約1年に渡り、上杉景虎との家督争いが続いた。
当初、上杉景虎勢は上杉景信・本庄秀綱・北条高広らを味方につけ、越後に迫る北条勢力に恐れをなす譜代家臣の支持を集めた。また、北条・武田の援軍が派遣され、上杉景虎が優勢であった。
しかしながら、上杉景勝勢は春日山城を抑えていた為、上杉謙信が残した城内の資金を使い対外工作に成功。春日山城には2万7140両の蓄えがあり、武田勝頼にはそのうち1万両を送ったと東上野の割譲を約束したとも言われている。
最終的には武田勝頼も上杉景勝に鞍替えし、1578年12月には武田信玄の娘・菊姫を上杉景勝の正室に嫁がせ上杉景勝と武田勝頼が同盟するなど、上杉景虎を孤立させた。
1579年2月1日、御館の上杉景虎はついに逃亡。正室だった上杉景勝の姉は降伏勧告を拒んで自害(享年24歳?)。
上杉景虎は出身地の北条を頼るべく小田原を目指すが、途中、立ち寄った鮫ヶ尾城で鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、もはやこれまでと自害。(享年24歳)
もともと、家臣の争いが絶えない、上杉家を象徴するかのように、その後も栃尾城・本庄秀綱、三条城・神余親綱らが上杉景勝に抵抗するが、上杉景勝勢は攻略し名実共に越後の後継者となった。
この御館の乱で、樋口兼続(のちの直江兼続)は父・樋口兼豊や弟・樋口与七と共に上田衆を率いて奮戦し、戦功があったとされ、1580年7月17日に、樋口兼続は河海免除の船一艘を与えられ奉行に就任した。
1580年8月15日には奉行職として佐藤庄左衛門、皆川式部丞に上杉景勝からの知行書を出すと言う重要な役割をしているのが確認できている。
その後、1581年4月24日には、樋口兼続の名で、新潟の船江明神に諸役を免除する書状を出している他、6月3日には、松倉城主・上条宜順が加賀・能登の敵情を探って樋口兼続に報告するなど、以後、頻繁に書状などにて兼続の名が確認できている。

1581年9月1日、春日山城内で家老・直江信綱と家老・山崎秀仙が対談中、毛利秀広がきて不意に山崎秀仙を切り捨てた。直江信綱は驚いて毛利秀広と切合い、毛利秀広の顔面に傷をおわせたが、毛利秀広は反撃して直江信綱を斬り倒す事件が起こった。
これは御館の乱による恩賞争いが原因で、この乱に勝利したのは五十公野重家、三条道寿斎、毛利秀広らが上杉景勝に味方した為であり、彼らにぜひ城を与えてほしいと上杉景勝派の軍奉行・安田顕元が上杉景勝に言上し、上杉景勝も一時は同意した。
一方、山崎秀仙らは最初から味方した譜代の家臣ではなく、途中から味方した言わば外様の五十公野らに第一の恩賞を与えることに反対し、結果、上杉景勝は譜代の家臣を重用し、安田顕元は五十公野らへの恩賞の約束を果たせなかったことで、責任をとり自害したと言われている。
しかし、恩賞への不満は収まらなかったのである。
なお、毛利秀広は、その場に居合わせた岩井信能・登坂広重に討ち取られている。

越後の名家・直江家は断絶することになったが、上杉景勝は、直江家の娘で、直江信綱の未亡人・お船の方(おせん)(25歳)と樋口兼続(22歳)を結婚させ、樋口兼続に直江家を継がせた。
樋口兼続は直江家に婿入りし、名門・直江家の当主・直江兼続となった。
1581年11月19日に須田満親が直江兼続宛に書いた書状にて、初めて直江兼続と表記が見られるので、恐らく10月頃にお船と結婚したものと推測される。
直江兼続は与板衆121名を配下に従え、以後、若き直江兼続と頭角を表していた狩野秀治の2人で上杉家で内政外交全般の執政を取ることになった。
下記は与板城下にあるに直江兼続の銅像。

 直江兼続の像

1581年、御館の乱の恩賞問題により対立状態にあった北越後の新発田重家が織田家と結び、北から越後に侵入し、西から織田勢の柴田勝家が攻め、上杉勢は挟み撃ちにあう。
この頃、織田勢は各地で攻勢に出ており武田勝頼も1582年3月に自決。1582年、柴田勝家を大将に佐々成政前田利家佐久間盛政不破光治らが上杉勢の魚津城を攻撃。織田勢は最終的に40000の兵力を動員し、篭城する魚津城を攻撃した。
これに対して、守備する上杉勢は3800。1582年3月2日には、魚津城から直江兼続宛てに、救援要請と落城間近で決死の覚悟であることを訴えたと言われている。
上杉景勝はこの頃、信濃を占拠していた織田勢への備えを重視していたが、春日山城からは魚津城救援のため、1582年4月13日援軍先発隊として上条政繁・斉藤朝信らが出陣。4月23日には、魚津城の山本寺景長・吉江宗信・安部政吉・石口広宗・若林家吉・亀田長乗・藤丸勝俊・蓼沼泰重・寺嶋長資・竹俣慶綱・中条景泰らが連署して決死の覚悟であることを直江兼続に報告。

これに対し上杉景勝は、織田信長が4月3日に甲斐国を発ち富士山見物をして駿河国・遠江国を経て安土に凱旋したことを確かめたあと、5月4日には上杉景勝自ら上杉本隊5000(3000とも)を率いて春日山城を出発、5月19日(5月15日説あり)には魚津城東側の天神山城に入り陣を張ったが、織田軍は5月6日に魚津城の二の丸まで占拠。守備する魚津城は5月9日に鉄砲の弾薬が底をついた。
短期決戦を望む上杉景勝に対して、柴田勝家は土塁や柵、深い堀を築いており、上杉の救援部隊は容易に織田勢に戦をしかけられる状態ではなかった。
こう着状態が続く間に、信濃・海津城森長可は5000で、春日山城近くの二本木まで進出や上野・厩橋城滝川一益も三国峠を越えようとした。
この後領内に進入する織田勢の動きを察知した上杉景勝は越中を捨てる覚悟で5月27日に退陣を決断し、上杉本隊は春日山城に退却した。一説では、上杉景勝はこのとき、魚津城を明け渡す条件で、柴田勝家と和議を結んで帰国しても構わない、という内容の直判の書を城中に送ったともいわれる。
包囲されてから約80日後、魚津城で篭城していた上杉勢の山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱といった13名は自刃し、1582年6月3日に魚津城は陥落。織田勢は越中を完全に制圧した。

中条景泰ら諸将は「焼けて誰の首だかわからないと見苦しい」と、自分の名を書いた札に針金を結い、それぞれ耳に通してから自害したと言い、この光景を見た織田勢の将兵は「上杉恐るべし」の感を強くしたと言う。
この魚津城の戦いで注目すべきは、織田の大軍が攻めてきた際に、内部から崩壊した武田のように、上杉勢からに織田に寝返る者が出ていないことである。
また、菊姫の縁を頼って、武田信玄の子である武田信清(安田信清)が上杉家臣に加わるなどしている。
上杉氏はあと少しで滅亡と言う危機に陥ったが、魚津城が落城した1日前の1582年6月2日に織田信長が本能寺の変で倒れていた。魚津城落城の前日に織田信長は命を落としていたのである。
柴田勝家のもとには6月4日に本能寺の変が届き、織田勢は混乱し撤退。明智光秀を破った羽柴秀吉は柴田勝家や柴田勢の佐々成政に対抗すべく、素早く上杉景勝に協力して欲しいと要請すると上杉景勝も羽柴秀吉に協力する事を決した。

1583年に柴田勝家は豊臣秀吉に敗れて滅亡。上杉氏は危うく難を逃れたが、羽柴秀吉から依頼されていた柴田勝家攻めに出兵するだけの余力もなく、信濃で北条氏との対立もあり、新発田重家の攻略は苦慮するなど、旧領を回復もならず国力はかなり衰退していた。
ちなみに1583年、豊臣秀吉は大阪城を築城開始している。また、24歳になった直江兼続もこの1583年より山城守を称するようになり、豊臣秀吉の家臣・石田三成と書状のやり取りも始まった。
なお、1584年末に狩野秀治が病に倒れると、直江兼続は上杉家の内政・外交のほとんどを担当するようになり、当時の上杉家臣は、上杉景勝を「御屋形様」と呼び、直江兼続を「旦那様」と呼んで、実質この2人が上杉家を引っ張っていた。
一方で羽柴秀吉は1584年徳川家康小牧・長久手の戦いになり、織田信雄が羽柴秀吉と和議を結び、徳川家康が2男を羽柴秀吉の養子にと大阪へ送り、1585年7月には関白の位を受けて羽柴秀吉は豊臣秀吉と改名し、着々と豊臣秀吉の天下が形成されつつあった。
また、豊臣秀吉は1584年9月以降、木村秀俊を越後に使者として送り、上杉家との講和を求める起請文を何度も送ったりしている。
そんな中、1585年8月、豊臣秀吉は佐々成政の富山城を10万の大軍で包囲し、佐々成政は織田信雄の仲介により無血降伏した。
その頃、上杉氏は魚津城奪還の為、佐々成政と対立しており、佐々成政を攻略すべく8000で出陣している。上杉景勝は糸魚川に在陣していたのを知って、豊臣秀吉は石田三成・木村秀俊ら38名と僅かな供だけを連れて、上杉勢の須賀盛能(須賀修理亮盛能)が守る越後の最西端・越水城(勝山城、墜水城)を訪問した。
木村秀俊は須賀盛能(須賀修理亮盛能)と顔見知りであり、須賀盛能を通じて豊臣秀吉は上杉景勝との会談を希望したのだ。
須賀盛能は糸魚川の上杉景勝に早馬を出し、豊臣秀吉らを丁重に越水城に招き入れた。
この時、報を受けた上杉景勝は直江兼続・藤田信吉・泉沢久秀らを伴い直ちに70名ほどの人数で越水城(勝山城)へと向かった。
この際の逸話としてこのような話が残されている。
須賀盛能は「もし秀吉を害するならばお手を煩わせるまでもなく私が討ち取ります」と上杉景勝に申し出たが、「もはや天下の権を司る秀吉が、この戦国の中に数多くの難所を越えてはるばる越後までやってきたのは、ひとつは先年の約を違えず景勝と誼を結ばんため、ひとつはこの景勝が卑怯な振る舞い(暗殺)をしないと信じてこそ来たのである。
それをここで討ち取ってしまっては、景勝が今までに取った弓矢の名を汚すであろう。
ここは秀吉と会談して望み通りに親しくなるか、さもなくば、一旦彼を帰した上で、改めて正々堂々と勝負を決するべきである」と述べたという。
こうして越中・越水城にて家臣一同一通りの挨拶の後、豊臣秀吉と石田三成、上杉景勝と直江兼続らは4人だけで会見し、豊臣秀吉は上杉氏に協力を要請。4時間に渡る会見で、上杉景勝も豊臣秀吉の義に応える形で豊臣氏と上杉氏は同盟関係となった。
この時、石田三成は直江兼続と同い年の26歳。お互いは意気投合し盟友となる。これを世に「越水の会(落水の会、おちみずのかい)、落水盟約」(1585年8月)と呼ぶ。
翌年1586年、甘粕景継・色部長真・本庄繁長らに春日山城の守りを任せて、5月20日に上杉景勝は直江兼続を連れて春日山城を出発し上洛。
6月7日京に到着し、六条本国寺へ逗留。6月14日に大阪城で関白・豊臣秀吉と会見。白銀500枚、越後布300反を贈り、もはや豊臣の天下と豊臣氏に臣従した。上杉は越中と上野の領有を放棄。(上野は真田昌幸の所領となる。)かわりに佐渡・出羽攻めを許可された。6月16日には豊臣秀吉が上杉景勝を茶の湯に招き、千利休は直江兼続・千坂対馬守を茶の湯に招いた。
そして、6月21日、上杉景勝は従四位下左近衛少将、直江兼続は従五位下に任ぜら、6月24日に帰途につき、7月6日に越後に着いた。上杉はすぐさま新発田攻めを再開し、8月26日には御弓頭として直江兼続も出陣している。
豊臣秀吉は1587年九州征伐。上杉も度々新発田攻めを行っており、1587年夏以降、豊臣秀吉の支援を受けて1万余の大軍にて新発田城包囲。
10月25日に新発田重家が自刃し、長年敵対していた新発田重家を討伐。この戦いにて直江兼続・藤田信吉らが五十公野城を陥落するなど直江兼続も武功を挙げた。
1588年4月20日に春日山城を発ち、再び上杉景勝と直江兼続は、須田満親、色部長実、泉沢久秀らと共に上洛し、5月7日京の本国寺に到着。5月26日、上杉景勝は従三位参議に昇進。
8月17日、直江兼続自身も、関白・豊臣秀吉から従五位下を賜り、須田満親、色部長実らと一緒に直江兼続も豊臣の氏を授けられ、改めて山城守を賜った。
この上洛中、上杉景勝と直江兼続は高野山を参詣し、直江兼続の縁者である高野山龍光院の清融阿闍梨とも面会。8月下旬に帰国した。
上杉家は1589年6月に佐渡の本間氏も平定し、上杉家は安定期を迎えた。
度重なる上洛の際に直江兼続は五山文学を中心に、禅僧との交流を深め、中国の史書や古典などを積極的に集めると言う側面も見せている。
1590年には豊臣秀吉の小田原征伐が始まる。その際、上杉勢は10000の兵にて北国軍として2月10に春日山城を出陣し、上杉景勝や直江兼続らは2月15日海津城に入った。
北国軍の総大将である前田利家も前田慶次ら18000で2月20日に金沢を発し、信濃で上杉勢に合流。
そして真田昌幸・真田信繁ら3000と、松平康国の4000が加わり35000の大軍となった。
北国軍はまず15000で4月20日に松井田城を攻略。6月14日には鉢形城を落とし、そして、八王子城も攻め、6月20日大量虐殺の上、八王子城も陥落させている。
8月23日には庄内藤島一揆が起き、直江兼続も上杉景勝に従って出陣し、11月下旬に春日山城に戻った。
1591年3月7日、直江兼続は単独で京に上洛し、細川幽斎と連句を楽しんだ。4月には直江兼続が藤島一揆の残党を討伐し、大宝寺城を改修。年末からは朝鮮出兵の準備に追われた。
11月18日には、来年に朝鮮へ出陣するため春日山城の留守将・藤田信吉や安田上総守と協議するよう庄内在留の諸将に命じている。
1592年3月1日、豊臣秀吉の朝鮮出兵の為、5000を率いて上杉景勝と直江兼続・泉沢久秀らは出陣。3月13日から京に数日滞在し、3月22日には肥前名護屋での茶会参加が見られる。
肥前名護屋には約2ヶ月滞在。6月2日には豊臣秀吉の乗船である小鷹丸に乗り、上杉景勝に従い朝鮮に渡り、6月17日釜山浦に着岸した。上杉勢は熊川城を築城し従軍する。ただし、この戦は無益と直江兼続は、自軍に対し、財貨の略奪などを厳しく戒めたいたと言う。
朝鮮で年越ししても戦は続いたが、上杉勢は病気に悩まされ、藤田信吉勢は310名中、44名が病で亡くなった。
上杉勢はようやく1593年9月8日に肥前名護屋に帰陣。豊臣秀吉の命ですぐさま越後に帰国し休養した。この年、本庄繁長の子・主馬長房が、直江兼続の養子となり与次郎と改名するが、のち生家に帰っている。
1594年3月23日、上杉景勝に従い、京に上り、豊臣秀吉の命により伏見城の総構堀普請に従事する。8月16日には直江兼続が庄内2郡の法度15ヵ条を発行。8月16日、上杉景勝は、従三位、権中納言に昇進し、太政大臣になることができる公家に準じた。
9月時点で直江兼続の知行高は53217石、公約人数3193人。10月28日、太閤・豊臣秀吉が、上杉景勝の聚楽邸に寄った。この時、直江兼続は、太刀一振、馬代銀子200枚、小袖10領を献上。
1594年のこの年、直江兼続35歳になって初めての嫡男・平八景明が誕生。幼名竹松。
1595年1月、豊臣秀吉より佐渡・金山の管理を上杉景勝が賜る。11月には直江兼続の指導で上杉の伏見邸が完成。また、1595年、豊臣秀吉の人質となった上杉景勝の正室・菊姫に付き添う形で、直江兼続の正室・お船の方も京都伏見の上杉邸に移る。
1596年、直江兼続は甘粕景継と共に羽黒山・長寿寺の金堂宝形を造営した。


1597年1月20日、伏見城改築にあたり豊臣秀吉より、直江兼続は伏見舟入奉行に命じられる。これに対して直江兼続は越後の人夫4000人を使い、自ら監督。完成後、豊臣秀吉より普請場御殿を賜った。
2月16日には上杉景勝の命により、春日山城修築を開始し、直江兼続は山田雅楽助に工事の総監督を命じた。この年、上杉景勝が五大老に就任。
1598年1月20日、豊臣秀吉の命で上杉景勝が越後から会津120万石(会津四郡、仙北八郡、田川遊佐、置賜、佐渡)に加増移封されると、豊臣秀吉は直江兼続に出羽米沢6万石(諸説有・3万石とも)を与えると発表し、直江兼続は大名格になった。
豊臣秀吉は「天下の政治を安心して任せられるのは、数人しかいないが、その一人が直江兼続だ」と高く評価している。
また、当初は金山がある佐渡も召し上げになる予定だったが、石田三成の進言で、佐渡島はそのまま上杉家の所領となった模様で、国替えが難しい中、上杉家は比較的円滑に国替えが進められた。
上杉が会津入りすると「かぶき者」と言われた前田慶次郎が直江兼続の誘いを受けて上杉景勝の家臣になりたいと申し出る。1591年に前田利家を騙して水風呂に入れて前田家を出奔し、京都で暮らしていた。
「録高は問わない。自由に勤めさせてもらえばよい」と仕官を願ったとされ、上杉景勝は組外御扶持方と言う自由な立場として1000石で迎えている。
2月16日、直江兼続は石田三成と協議し、蒲生氏国替えに関する掟書を発令している。
3月6日、上杉景勝は伏見を発して会津を目指し、3月24日越後から会津に入り、家臣を配置。直江兼続は一足早く、3月11日に米沢の検地を実施し、米沢市中の諸役を定めた。お船の方も伏見から米沢に移り、上杉家は絶頂期を迎えたが、同年1598年8月18日に豊臣秀吉が死去する。
9月19日、神達明神を富士山の裾野より米沢に移し、直江兼続は、父である樋口兼豊に管理を命じている。また、直江兼続は上杉景勝より一足早く伏見に入っている。12月下旬には、豊臣秀吉の遺命により、陪臣ではただひとり、直江兼続は太刀兼光を一振拝領している。
1599年は新しい領地となった120万石の整備に努め、7月6日には直江兼続の名で、普請奉行を派遣して仙道七郡の道路・橋梁を整備したり、8月には伏見から会津に入り、春日右衛門に米沢の庶務を命ずるなどしている。
しかし、同年3月3日には前田利家も亡くなり、徳川家康を抑えられる大名がいなくなり、次の天下人として台頭。豊臣家を重んじる石田三成らとの対立が徐々に深まっていき、徳川家康は石田三成を奉行職から解任して、佐和山城で蟄居させた。

1600年2月2日からは延べ12万人を動因し、上杉景勝は新城(神指城)の築城を開始。会津若松城の約2倍にもなる築城普請は総監として直江兼続が担当し、弟・大国実頼も普請に勤めたが、、甘糟景継も直江兼続のもとで普請奉行を務めている。
上杉景勝や直江兼続はもともと豊臣秀吉と義を重んじ、石田三成と親しくしており、上杉氏は徳川家康と対立。上杉家重臣・藤田信吉が徳川家との融和を主張し、直江兼続は藤田信吉と対立したが大森城主・藤田信吉は上杉家から出奔。藤田信吉は徳川秀忠のもとに逃れた。
また、上杉氏のあとに越後領主となっていた堀秀治(堀久太郎秀治)もこのような上杉氏の行動を謀反の疑いがあると徳川家康に報告。
それに対して徳川家康は上杉景勝に使者を出し上洛を促し、更に徳川家康の親近の僧である豊光寺の承兌(しょうたい)からの書状も、1600年4月13日、直江兼続に届き、上杉景勝の上洛を催促した。
直江兼続は道路橋などの普請や新城の必要を書状にて説明し、謀反の疑いがあると言う者にその真偽を確かめるべきと、堂々と申し開きをし、その書状は5月3日に豊光寺の承兌に到着。
しかしながら、徳川家康の度重なる上洛要求を拒み、新城築城していることを謀反との口実にして、徳川家康は1600年6月18日伏見から会津に向けて出兵。徳川軍約5万が7月24日に小山まで進軍。
石田三成挙兵の報が入り、8月4日に徳川家康は結城秀康を見殺し覚悟で上杉勢の抑えに残して5万の兵を西に方向転換させた。
この時、上杉軍は白河の南にある革籠原に着陣しており、この千載一遇の機会に直江兼続はすぐさま徳川を背後から襲うよう追撃戦を上杉景勝に進言したが、上杉景勝は「追い討ちは謙信公の教え(義)に背くこと」と徳川勢の追撃は行わず、徳川に上杉軍備増強の密告をした最上攻略を優先し会津に帰陣した。
初めて上杉景勝が直江兼続の言うことを聞かなかったとされるが、なぜ上杉景勝は追撃しなかったのか、歴史の謎となっている。本来であれば、この時、上杉氏は少なくとも打倒徳川が最大の目標であったはずである。
仮定の話だが、退却する徳川勢を追撃して少しでも打撃を与えたり、関東へ侵攻していたなら、石田三成は有利に対徳川の戦を進められたかも知れない。
結果的に徳川家康は上杉を奥州に封じ込めて、主力を西に向かわせる事ができ、天下分け目の戦いだけに集中することができた。 
上杉勢は石田三成の挙兵による混乱が長引くと考え、その間に山形を攻略しようと会津に帰るとすぐの9月9日に最上義光の山形へ侵攻。3万(2万5千とも、4万とも)を直江兼続が率いて出陣した。米沢城は父・樋口兼豊に守備をお願いしている。
直江兼続は色部修理を先手として細谷城を攻めるが、最上勢の江口光清ら300が守る細谷城を9月13日に攻略し、江口道連を討ち取る。しかし、細谷城攻めでは3日間も費やし、味方に多数の死傷者を出した。
引き続き9月14日には山野辺・長崎・谷内・寒河江・白岩の各城を攻略し、残すは最上義光の山形城長谷堂城のみとなった。
次に志村光安・鮭延秀綱らが守る長谷堂城や上山城を攻めるが、上杉勢の武将・上泉泰綱が戦死するなど長谷堂城の攻略に手間取った。
最上勢は4000人が出兵中で、留守部隊は志村高治ら3000人と推測できるが2000もの鉄砲を用いて、直江兼続の上杉勢18000を相手に防御に徹したようだ。
この長谷堂城の戦いで直江兼続は最上義光本隊が戦場に出てくるのを待つ事にしたが、その頃、美濃では1600年9月15日に関ヶ原の戦いとなり、西軍が敗れた事が奥州に伝わると、勢いに乗った最上勢には、伊達政宗が味方し、留守政景を大将にした3000の援軍を送り、上杉勢は一気に不利な情勢となった。
その為、9月29日、関ヶ原で石田三成敗退の報が届き、上杉景勝は、直江兼続らに撤退を命令。
10月1日、直江兼続は長谷堂城の包囲を解き退却開始。伊達家臣・留守政景勢が上杉勢を追撃し激戦になる。この日6キロ撤退するのに10時間要し、その間28回も戦闘があったとされる。
この状況にさすがの直江兼続も絶望し、ついに自決を覚悟したと言う。しかし、前田利益(前田慶次郎)が「言語道断。左程の心弱くて、大将のなす事とてなし。心せはしき人かな。少し待ち、我手に御任せ候へ」 と諌め、前田利益(前田慶次郎)は水野・藤田・韮塚・宇佐美ら朱柄の槍を持った5名と兵300で追って来る最上勢を何度も蹴散らした。
直江兼続も鉄砲800挺で最上勢を迎撃。これら上杉勢の殿(しんがり)を努めた水原親憲が鉄砲200丁で支援射撃を行うなど諸将の奮戦もあり、細谷城に入り、なんとか撤退し10月6日(10月4日とも)米沢に帰着する。
この直江兼続らの活躍で大きな被害も無かった長谷堂城の戦いの見事な撤退戦は敵にも称賛され、旧日本陸軍参謀本部の「日本戦史」でも取り上げられるほど見事なものであったとされる。
10月20日、会津で軍事会議を開催し、千坂景親より上方の報を検討した結果、和平の道を模索することになる。

直江兼続の兜「愛」

最上義光は上杉勢を撃退した功により24万石から57万石となった。一方、石田三成に味方していた上杉氏は徳川家康に申し開きをする機会を与えられ、上杉景勝と直江兼続は1601年7月1日会津を発ち、7月24日伏見邸に入った。
直江兼続はこの戦の一切の責任は自分にあり、その証拠に上杉景勝は徳川家康軍が撤退した際に追撃を許さなかったなどと釈明し、その罪を一身に受けると、北庄城主・結城秀康を頼って徳川家康に言上した。
その結果、8月17日、徳川家康からお家存続は許さる。しかし、上杉景勝は出羽米沢30万石へ減移封となった。
8月20日、直江兼続は安田能元・水原親憲・岩井信能を米沢へ移転させ、家臣の知行地が3分の1になる君令を平林正恒に伝えた。
120万石から30万石と25%の石高になったが、約6000名のほとんどの家臣は去らずに11月28日、米沢に移った。
直江兼続も5000石に禄高が減った。
前田利益(前田慶次郎)も、他国から高禄の誘いをすべて断り、500石(2000石?、300石?、200石など諸説有)に禄高を減らされたが、人柄に惹かれた上杉景勝に最後までついて行ったのである。
当時、人口約6000人の米沢に、上杉家臣団の約6000人が入り、移った家臣は住む家もなく、食べ物にも困ったと言う。
直江兼続はあふれた家臣や民の為、米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産・鉱山開発を推めるなど、米沢藩の内政に力を入れる。
直江兼続は、城下を拡張させ、家臣団の屋敷割りと町割りを行い、城下に収容しきれなかった下級武士は米沢郊外の南原・東原(山上・花沢)に配置し、荒地を開拓させた。
また近江国住友村から吉川総兵衛、和泉国堺から和泉屋松右衛門という優れた鉄砲鍛冶を雇い入れて、白布温泉近くに200石をそれぞれに与え住まわせ、上杉家の軍備強化を図り、10年間に約千挺製造したと言う。
また直江兼続は徳川重臣の本多正信とも交流があり、その本多正信の取り計らいで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献している。
1602年9月12日、樋口兼豊(直江兼続の実父)、死去。10月、直江兼続は、上杉景勝の名代として江戸城に登城。
1603年徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。
1604年2月16日、上杉景勝の正室・菊姫が京都で死去。
同じく2月、直江兼続は米沢大町札辻を基点として各村への里程を定めて、米沢市街の防備を厳重にするように命じている。また、9月には近江・友村の吉川総兵衛と和泉・堺の和泉屋杢右衛門を招いて白布高湯で鉄砲鋳造開始。
なお、上杉景勝に唯一の子・上杉定勝が1604年5月に誕生するが、上杉定勝の生母である桂岩院が8月に死去するなどした事により、直江夫妻が上杉定勝の養育を引き受けた。
また同1604年8月、前田利長に3万石で仕えていた本多正信の息子である本多政重が直江兼続の娘・於松の婿養子となって直江勝吉(直江大和守勝吉)と称し、上杉景勝は10000石を与えた。
しかし、徳川2代将軍に徳川秀忠就任した、翌年(1605年)の8月17日には新婚僅か1年であった於松が亡くなる。また、1月には次女(名前不詳)も亡くなっていた。
1606年5月13日、2代将軍・徳川秀忠は、上杉景勝に江戸・桜田邸右向かいの鱗屋敷を与え、直江兼続はそこに住居した。
関が原以後、直江兼続は上杉家と徳川家の融和を図り、直江兼続は徳川家に忠誠を誓い、1608年1月4日、直江兼続は直江重光と改名した。(本文中では以後も直江兼続と記載する。) この年、上杉景勝は米沢城の外堀を掘る工事を開始し、直江兼続が総監を務めた。

1609年6月には本多正信の取り成しで10万石分の役儀が免除された。直江勝吉が安房守(直江安房守勝吉)に改名。
9月には、直江兼続の実弟・大国実頼の娘・阿虎(おとら)を直江兼続の養女として、直江勝吉と再婚させ直江勝吉は直江政重(直江安房守政重)を称した。
12月2日、直江兼続の嫡男・直江景明は、徳川家康の近習から30000石藩主となっていた近江・大津の膳所城主・戸田氏鉄の娘と、本多正信の媒酌で結婚。上杉景勝は、直江兼続父子および新婦に祝儀を下賜している。
戸田氏鉄の娘の嫁入りに際しては戸田家から豪華な道具類が直江家に届けられ、直江兼続の家臣らはそれらの道具に負けないものをお返しすべきと考えたが、直江兼続はその必要など無用と答え、どうしても高価な道具類が必要ならは、婚儀を破談にしても良いと答えたと伝わる。
このように質素倹約に努める中、ようやく米沢城下町の整備も整ったこともあり、直江兼続は生来病弱で両眼を病んでいた長男・直江景明や上杉家などの為に五色温泉に湯壷を開き、浴舎や小屋を設け、大名並みの足軽60名に警護させて、長男・直江景明は長期間湯治を行ったとされ、現在も秘湯感漂う一軒宿が残る。
この頃、直江兼続の禄高は30000石と幕府に報告。
1611年に本多正信の息子である本多政重が直江兼続の元を離れて上杉家を出奔。本家に戻り本多政重(本多安房守政重)と改名。
翌1612年には前田家に帰参し3万石を拝領。妻の阿虎は本多政重が加賀藩に復帰すると加賀の夫の所に行ったが、この際、豪胆で武勇に優れていた本多政重や阿虎を慕い、本庄長房ら多くの直江家家臣が阿虎に従って本多政重がいる加賀へと出奔した。
本多政重が直江家に入ったり、前田家に仕えたり、仕官先を頻繁に代えているのは、一説に、本多正信の意を受けて、諸大名を内偵したのではとも言われているが、直江兼続と本多正信はその後も親交は続いていたようだ。
1613年には直江兼続が馬術稽古の練習場を米沢城の北側に造るなどの動きが見られる。
1614年からの大坂の陣においては、江戸へ上る途中だった上杉景勝に10月5日に大阪城攻めの命が届き、直ちに米沢の直江兼続に使者を出し、直江兼続は10月9日に出陣の準備を上杉家臣に命じた。そして、上杉勢は10月16日に米沢を出発。
途中、藤枝で上杉景勝と合流し、山城の木津に11月6日着陣した。上杉勢は11月26日、鴫野口の合戦で後藤基次(後藤又兵衛)に勝利。須田長義・水原親憲・黒金泰忠らに戦功があった。
直江兼続は徳川勢として長男・直江景明(直江平八景明)と共に殿軍を務め、武功を挙げ、1615年1月17日、徳川秀忠から感状と太刀一腰および小袖を与えられた。
このとき、長男・直江景明結核を患っていたとされる。
1615年2月29日、直江兼続と上杉景勝は米沢に帰還。しかし再び大阪城攻めの命が下ると、4月10日、米沢を出発し、下旬に大阪に着陣。
5月2日、再び大阪の陣が勃発し豊臣氏滅亡。6月に上杉景勝と共に米沢へ戻ったが、1615年7月12日、長男・直江景明が看病の甲斐も無く早世。享年22。
時期は不明だが、直江景明の正室(戸田氏鉄の娘)はのちに板倉重宗の継室になっている。
同年1615年の6月10日には、本多政重の正室・阿虎も死去していた。
1616年3月4日、直江兼続は上杉景勝に従い、江戸を出発。徳川家康の病気見舞いのため駿府へと向った。4月17日に徳川家康が死去。享年75歳。
1618年、直江兼続は足利学校で修行した九山和尚を米沢に呼び寄せ、禅林寺(現法泉寺)を開いた。禅林寺には直江兼続が集めた図書を置き、米沢藩士の学問所とし藩内に学問を広めた。
また、この年、上杉景勝は軍備増強を命じている。
1619年も、上杉景勝と直江兼続は精力的に行動し、3月16日に米沢を発ち、3月28日に江戸するが、5月に直江兼続は体調を崩す。
そして5月8日には上杉景勝に従い江戸を発ち、5月13日に京に入るなどしたが、1619年10月、直江兼続は床に伏せ、1619年12月19日、江戸鱗屋敷で病死。享年60歳。結核と考えられている。
上杉景勝は香典銀50枚、将軍・徳川秀忠も銀70枚(50枚とも)を供え、直江兼続の遺骨は高野山清浄心院の上杉家墓地の西隣に納められた。墓は米沢徳町徳昌寺(現:長慶寺)に造られた。
 
直江兼続と正室・お船の方との間には長男・直江景明と長女・於松、次女(名前不明、1605年1月病死)に恵まれたが、長男・直江景明も上記に記載のとおり1615年に早世していた。
その為、直江家は断絶したが、減移封を招いた責任や、上杉家の財政を助ける為に直江兼続が意図的に跡継ぎを設けなかったする説もある。
藩政運営は直江兼続の右腕として働いていた平林正興に引き継がれ、死後も米沢藩内での直江改革は引き継がれていった。


1924年(大正13年)2月11日、宮内省より直江兼続に従四位が追贈された。改名後の直江重光ではなく、兼続名に対して追贈であった為、現在のように一般的に直江兼続の名で知られることになっている。

兜には「愛」の文字

直江兼続の兜には「愛」の文字を着けていたことで有名だ。「愛」は「愛染明王」又は「愛宕権現」の由来とされているが実際にはよくわかっていない。
その兜が米沢市上杉博物館や米沢市の上杉神社に保管されている。

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    • sohsuke
    • 2015年 10月 27日

    須賀と申します。
    私の祖は寺の過去帳で文久の時代に
    東藤泉村の士族であると確認しております。
    言い伝えに依りますと江戸時代は上杉の蔵を守っていたそうです。
    須賀修理とのつながりをちょっと夢見てしまいました。

    • 高田哲也
    • 2015年 10月 28日

    須賀さま、この度はコメントありがとうございます。過去帳に明記があるくらいでしたら、上級武士である可能性がありますね。以上、改めましてご投稿、御礼申し上げます。

  1. 2015年 10月 10日
  2. 2015年 12月 19日
  3. 2015年 12月 27日
  4. 2016年 2月 06日
  5. 2018年 7月 15日
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  16. 2018年 8月 13日

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