堀秀治 父のように優秀ではなかったが家臣に恵まれた大名(堀直政も)

堀秀治

堀秀治(ほり-ひではる)は、堀秀政の嫡男として1576年に生まれました。
母は喜多島良滋の娘となります。

父・堀秀政は「名人・久太郎」と呼ばれた文武両道の武将で、織田信長の小姓・側近を努め、羽柴秀吉の軍監も担っていました。
本能寺の変あと、清州会議にて、佐和山城主となっており、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の一族以外では、初めて羽柴氏の名字を与えられた武将と推定されています。
1585年に丹羽長秀が亡くなったあとには、北ノ庄城18万石となり、加賀・小松城の村上義明、加賀・大聖寺城溝口秀勝が与力に加えられていました。

1590年、小田原攻めでは、父・堀秀政とともに、堀秀治も参陣し、山中城攻めで戦功をあげます。
しかし、小田原参陣中に、父・堀秀政は38歳で病死し、堀秀治が跡を継ぎました。
正室は長谷川秀一の娘です。


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文禄元年(1592年)、堀秀治は、文禄の役にて肥前・名護屋城に参陣し、1593年には伏見城の普請にも携わりました。

その後、1598年4月に越前・北ノ庄から越後・春日山城30万石へ加増移封となります。

春日山城からの眺め

このとき、村上義明を村上城9万石に、新発田城には溝口秀勝が6万1000石、堀親良が蔵王堂城で3万石、堀直寄は坂戸城にて2万石となり、与力としました。

ただし、堀秀治はまだ24歳で若干不安視されたようで、豊臣秀吉は堀直政を三条城に入れて補佐(後見)を命じています。
このことからも、父と違って、堀秀治は才覚がなかったともされますが、家臣らの反発が無いことから、良い意味で人材をうまく活用することはできていたものと存じます。

堀直政(ほり-なおまさ)は、奥田直政と称していましたが、亡き堀秀政とは幼少期から共に過ごしていた武将で、同じく織田信長の小姓にも抜擢されていました。

堀直政

この堀直政も優秀な武将で、正室は、堀秀政の娘です。

上杉景勝が春日山城を去って会津に向かった際、直江兼続石田三成の謀議にて年貢米が全て持ち去られていたと言います。
この頃、豊臣政権での国替えは、年貢米の半分は残しておくと言うのが決まりでした。
さらに、直江兼続は半年分の租税を前納させたようで、堀家は米と税の返還を求めています。
なお、堀家はやむなく、新潟代官・河村彦右衛門から2000俵の米を借りたと言います。

堀秀治は、春日山城の矢倉・堀の普請など強化し、豊臣秀吉が死去すると徳川家康に対して、一族の堀直重を人質として出しています。
上杉景勝が、神指城を築城し始め、武具兵糧の購入、砦や橋の修繕、浪人雇用など軍備増強を図ると、家老の堀直政が徳川家康に報告しています。
そして、関ヶ原の戦いの前には、加賀・金沢城前田利長、堀秀治と堀家の与力大名である溝口秀勝・村上義明らに会津攻めの命が下りました。

しかし、上杉家に揺動された上杉遺民一揆(越後一揆)が越後にて勃発し、軍事行動が妨害されます。
上杉景勝は、越後にまだ残っていた旧家臣の竹俣朝綱や加地景綱などの諸将や、寺社・一向宗にも呼びかけ、堀勢の会津入りを妨害しました。

小倉政熙の下倉城、三条城、ひ生城など各地で散発的に戦闘が行われましたが、一揆勢は全体での組織的な攻撃までには至らなかった模様です。
そうこうしているうちに、石田三成の挙兵が伝わり、会津攻めは中止となり、小山城に入っていた徳川勢も西へと転進しました。
また、上杉景勝も攻撃先を山形城最上義光としたため、堀家は一揆勢の討伐が任務となりました。
しかし、一揆も上杉家による越後の回復と言う意義を失い、自然消滅したと言います。
ただし、この掃討の結果、反発していた在地勢力お領民の不満を削ることができ、堀家の統治は安泰となりました。

そして、所領安堵となり、福嶋の地に新城の築城を開始しています。
しかし、その越後・福島城の完成を見ず、堀秀治は慶長11年(1606年)5月に31歳で死去しました。

下記は上越・林泉寺にある堀秀治の墓です。

堀秀治の墓

あとは嫡男・堀忠俊が10歳で継いでいます。
家老・堀直政の尽力にて、本多忠政の娘・国姫を、徳川家康の養女としたあと娶りました。
また、将軍・徳川秀忠から偏諱と松平姓を授かるなど、徳川将軍家の強力な保護を受けています。


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しかし、直江兼続、小早川隆景と共に天下の三陪臣とされた、頼りの堀直政も、慶長15年(1610年)、62歳にて死去しました。
その後、掘家では家老・堀直清と堀直寄との御家騒動が勃発し、改易(所領没収)となります。

このように戦国の堀氏は、他の堀氏も含めて非常に興味深く生き抜いていますので、調べれば調べるほど、おもしろく感じます。
ちなみに、堀秀治の娘は、権中納言・久我通前に嫁いでおり、その子孫は孝明天皇明治天皇、大正天皇、昭和天皇、今上天皇と続いています。

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