小松姫の解説~真田信幸(真田信之)と歩んだ2人の生涯をわかりやすく

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松姫とは

戦国時代の1573年に誕生した小松姫(こまつひめ、小松殿)は、徳川家康の家臣・本多忠勝の長女(第1子)で、母は側室・乙女の方(松下弥一娘・月量院)。
幼名は稲姫(いなひめ)、または於小亥(おねい)とも称している。

妹には、もり姫(奥平家昌室)、弟には本多忠政本多忠朝らがいる。

小松姫は、真田信之の正室になるのだが、この真田信之は関ヶ原の戦い前までは真田信幸と名乗っている。
関ヶ原の戦いで西軍に付いた父・真田昌幸との決別を表現する為、名を信幸から信之に改めているので、事前にお知らせし、小松姫に関して記述した。


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1582年、武田滅亡後、真田信幸の父である知将・真田昌幸は織田信長の家臣となって沼田・吾妻・佐久などを安堵され、織田重臣・滝川一益の与力武将となっていた。
そして、本能寺の変で織田信長・織田信忠の死が確実となると、北条氏直は織田家に奪われていた恰好になっていた上野侵攻を開始。
北条氏直・北条氏邦56000と、滝川一益20000が、神流川の戦いで衝突した。
序盤は滝川勢が優勢であったが、織田信長の死が確実と知った兵の士気は下がり、2日目には滝川一益の直轄部隊2800だけが、ほぼ単独で戦う状況となり、滝川勢は総崩れ。
家臣の笹岡平右衛門が身代わりとなって討死し、滝川一益は一度、厩橋城に敗走。その後、碓氷峠を超えて小諸を経て、本拠地の伊勢長島城に逃げ帰った。
この事で、清洲会議にも遅れて、結果的に出席できず、織田家の実権を羽柴秀吉(豊臣秀吉)が握る経緯となった。

これ以降、真田昌幸は北条氏の組して、滝川一益に接収されていた沼田城を奪還して矢沢頼綱を配置し、真田氏としての独立性を強め、真田昌幸は1583年から上田城を築城開始した。

上田城

1584年、徳川家康が甲斐を制圧しすると、真田昌幸は徳川側の調略で、北条氏から離反。
そして、徳川家と北条家で和睦が成立すると、真田氏が所有していた上野沼田領と、北条氏が制圧した信濃佐久郡の交換が条件として加えられた。

徳川家康は、真田昌幸に対して、沼田領を北条氏に譲るよう促したが、真田昌幸は、沼田領は徳川家から与えられた領地ではないことを理由にして拒否。
そして、徳川を見限り、敵対関係にあった上杉氏に通じた。

1584年7月、浜松に帰還した徳川家康に、真田昌幸が上杉に造反したのが伝わると、8月に真田討伐を開始し、上田城へ軍を出した。
徳川勢は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に駐屯。
真田昌幸は上田城に籠城し、長男・真田信幸は戸石城に兵300にて篭城。また矢沢城には、真田昌幸の従兄弟・矢沢頼康が、上杉援兵と共に篭城した。

こうして、上田合戦(第1次上田城の戦い)が始まったが、真田昌幸・真田信幸ら真田は総勢1200。
対する徳川勢(鳥居元忠大久保忠世平岩親吉)は7000で、圧倒的に徳川勢が有利であった。
 
しかし、徳川勢は上田城の二の丸まで順調に攻めた後、真田勢の反撃を受け撃退。
徳川勢が撤退するのを見ると、真田勢は城から討って出て、砥石城(戸石城)の真田信幸も絶妙のタイミングで、徳川勢を追撃。

砥石城の門

そこに、矢沢頼康も加勢し、徳川勢は神川で多数が溺死し、約1300の戦死者を出したと言われる。
これに対して、真田勢の戦死は40人程であり、劣勢ながらも戦術を駆使して、徳川勢を撃退することに成功した。

翌日以降、徳川勢は丸子城を攻めるが、真田氏に協力した丸子氏の抵抗が強く攻略できず、以降、徳川勢は、真田に対して20日間対陣を続けた。
上杉勢が増援部隊を出したと知ると徳川家康は対処する為、井伊直政、大須賀康高、松平康重らの5000を上田に向かわせたが、上田城攻略は中止させ、上田の徳川勢には撤退を命令した。

圧倒的兵力だった徳川勢を、僅かな手勢にて撃退した真田昌幸の評価は高まり、また、父に劣らず、巧妙な戦術を駆使する真田信幸も、将来を有望視された。

その後、豊臣秀吉の仲介で、真田氏は徳川家康とも和睦し、真田家は徳川家康の与力大名となった。
 
真田の軍略に惚れ・恐れたいた本多忠勝は、真田家を徳川家に取り込むため、徳川家康に本多忠勝の娘・小松姫を嫁がせることを提案。
豊臣秀吉が提案したともされている。
徳川家康も、上田城の戦い後に面会した真田信幸の器量を感じ入っており、家臣に取り込んでおきたいという思いがあったことから話は進み、小松姫を徳川家康の養女(別説では徳川秀忠の養女)としてから、真田家へ嫁がせることとしたようである。
なお、小松姫と真田信幸(真田信之)の孫にあたる松代藩3代藩主・真田幸道が、江戸幕府に提出した書状に、小松姫は「台徳院(徳川秀忠)」の養女と記されている。
徳川家康は、駿府城に真田信幸を出仕させて、小松姫を娶らせているが、年代は1586年、1589年、1590年と諸説ある。


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小松姫の気性は、勇敢な父・本多忠勝に似て武家の女性として非の打ち所がなく、さらに容姿端麗であり、美女と呼ばれるにふさわしかったらしい。
1586年に嫁いでいたとしたら、小松姫は14歳である。1589年説だと小松姫は17歳、真田信幸は24歳。

婚礼の日に並んだ夫婦はよく似合っており、周囲もうらやむほどだったと言う。
徳川家康が大嫌いだった真田昌幸も、婚儀の前は小松姫の事も快く思っていなかったが、真田信幸の「徳川と縁を持つのは悪いことではありません」と言う言葉に押されて承諾。
その後、小松姫を見た真田昌幸は小松姫を気に入って「信幸(真田信之)には過ぎたる嫁じゃ」と言ったようである。

1590年の豊臣秀吉・小田原攻めにて、真田信幸は上野・松井田城攻めで戦功をあげ、成田長親が籠城した忍城攻めにも、石田三成勢の援軍として加わっている。
戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると真田信幸は沼田城主となった。

このように、各地を転戦する真田信幸の留守は、小松姫が守ったが、真田信幸も安心して全てを任せることができると、憂うことがなかったようだ。
1599年には3男・真田信重が誕生している。


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1600年、真田昌幸、真田信幸、真田信繁は在京しており、徳川家康に促されて会津の上杉景勝を討つため、国元に戻り出陣の準備を行い、7月の上旬に上田を発ち関東に向かった。
宇都宮で徳川勢と合流する予定だったが、 7月21日、下野・犬伏の陣に石田三成の密使が真田昌幸に届く。
その長束正家増田長盛前田玄以の連署状を見て、真田昌幸、真田信幸、真田信繁(真田幸村)の3人は今後の真田家の方針を話し合った。
真田昌幸の妻・山手殿羽柴秀長の家臣で13000石だった宇多頼忠の娘であるが、宇多頼忠のもう1人の娘は石田三成の正室になっているだけでなく、山手殿自身、大阪で石田三成の人質になっていたと考えられる。
真田信幸は徳川四天王の1人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を妻に迎えており、一時、徳川家に出仕もしていた事から、徳川家康を裏切る事はできない。
このような事情から、真田昌幸と真田幸村は石田三成につくことを決めて徳川の陣を離れ上田に帰参。
小松姫の夫・真田信幸はこのまま徳川勢として小山に進み、徳川秀忠にその旨を報告。この真田の決断は、犬伏の別れとも呼ばれている。
徳川家康は7月24日小山に着陣すると、即日、真田信幸を賞して、離反した真田昌幸の所領についても真田信幸に安堵させた。

沼田城の西櫓跡

一方、真田昌幸と真田幸村は今生の別れと、上田に引き返す途中、沼田に寄って孫(真田信幸の子)の顔を見てから上田に帰ろうと思い、1600年7月25日夜半に沼田城に使者を出し入城を申し入れたが、城を守る真田信幸の正室・小松殿は自ら武装して出迎え「例え義父であっても今は敵味方の間柄。主人の留守を預かる者として城の中には入れられませぬ」と入城を拒否したと言われる。
真田昌幸は、あわよくば、沼田城を占拠しようとも考えていたとされるが「さすがは本多忠勝の娘だ。武士の妻女たる者、ああでなければならん」と、城に入る事を諦め、近くの正覚寺で一泊した。
翌日、そこに小松姫が子供を連れて訪ね、護衛という名目で連れてきた兵たちを周囲を見張らせ、祖父と孫の対面を果たせたと言う。

小松姫の夫・真田信之は徳川家康に味方したことで、真田昌幸の旧領・沼田3万石を加増されて95000石となり、上田藩主となったが、上田城は破却を命じら、引き続き沼田城を本拠とした。この真田信幸(真田信之)の子孫は松代城(海津城)に入り松代藩として明治まで続いたのだ。

上田城の西櫓

真田信之は真田昌幸らの助命を嘆願する一方、西軍に付いた父との決別を表すために、名を真田信幸から真田信之に改めている。
小松姫の実父・本多忠勝の働きかけもあり、真田昌幸と真田幸村は助命され、紀伊・九度山へ流罪となった。
九度山に謹慎された義父・真田昌幸と義弟・真田信繁(真田幸村)に、小松姫は自費から仕送りをする一方、真田家の倹約に努め、献身的に夫を支えたと言う。

こういった逸話などから、小松姫は戦国時代における女傑の一人に数えられ、良妻賢母としても誉れ高い。

小松姫は1625年頃から体調を崩し、1626年、江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、2月24日、武蔵国の鴻巣で亡くなったと言う。
遺骸は沼田城近くの正覚寺に運ばれて、荼毘にふされ埋葬された。

小松姫の墓

夫・真田信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したとされ 婦仲は極めて良好であったようだ。
戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。
墓は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺、上田市芳泉寺に分骨されている。
また、真田氏の松代藩があった長野県長野市松代町松代の大英寺に霊廟がある。
上田城内には小松姫が用いたとされる駕籠が残されている。

松代・大英寺

松代城下にある大英寺(だいえいじ)は、1622年に真田信之が松代に移封した際に、上田にあった常福寺(現在の芳泉寺)を松代に移設するため、前領主・酒井氏の菩提寺である大徳寺の跡地に建設開始しました。
この時、小松姫(稲姫)は既に亡くなっており、上田城の近くの大英寺(現在の芳泉寺)に小松姫の墓があったのです。
しかし、松代藩への移封に伴い、この大英寺を建立したと言う事になります。

そして、1624年に大蓮院霊屋(万年堂)が完成し、伽藍一切を移し「松代・大英寺」になったとされます。
その時の大蓮院霊屋(小松姫霊屋)が、現在の本堂となります。

松代・大英寺

ただし、小生が訪問させて頂いた際には、上記の通り「修復中」で、建物が見えませんでした。
写真の一番手前に写っている表門は1624年の物です。

小松姫の次女・真田まさ(見樹院)の墓も境内にあるそうです。
この真田まさ(見樹院)は、飯山城主・佐久間盛次に嫁ぎましたが、1616年、佐久間盛次が亡くなると、松代城に戻り、のち1673年に79歳で亡くなりました。

松代・大英寺の場所ですが、下記の地図ポイント地点となります。

すぐ近くに、山手殿の菩提寺・大林寺もありますよ。

上田の小松姫の墓
沼田の小松姫の墓
小松姫の墓【鴻巣・勝願寺】仙石秀久の墓も
真田信之に関してはこちら
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小松姫(稲姫)

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