平岩親吉をわかりやすく解説【どうする家康】信頼に答え忠実に仕えた徳川家康の三河武士

平岩親吉とは

平岩親吉(ひらいわちかよし)は、三河国額田郡坂崎村(愛知県額田郡幸田町)にて、平岩親重の次男として1542年に生まれた。平岩主計頭とも。
母は天野貞親(天野清右衛門)の娘。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」ではハナコの岡部大さんが平岩親吉を演じられる。

平岩親吉は、今川義元の人質になっていた徳川家康と歳が近かったことから、1547年、6歳のときに駿府に送られ小姓になったと言う。
1558年に徳川家康の初陣に従って、自らも初陣を果たすと、三河の統一などで活躍し、徳川家康からの信頼も厚く、徳川家康の嫡男・松平信康が元服した際には、傅役となっている。
兄は徳川家康への仕官を固辞して、放浪の身となったようだ。

平岩家の家紋は2本の弓が向かい合わせの状態であり、これは平岩氏が弓削氏から出た一族であることから「弓」の字を家紋にしたと言われている。

正室は石河正信の娘。


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1575年12月には、佐久間信盛の讒言にて武田勝頼との内通を織田信長に疑わた水野信元を、徳川家康の命にて三河大樹寺(岡崎市鴨田町字広元)で暗殺した実行犯ともされている。

1579年、松平信康に切腹させるよう織田信長が命令した際には、平岩親吉が自らの首を差し出すとして助命嘆願した。
その後、責任を感じて1年程蟄居謹慎したが、のちに徳川家康から許されると復帰した。

1582年、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死すると、天正壬午の乱となる。
甲斐を得た徳川家康は、甲府城主13000石として平岩親吉を配置。
甲府城が築城開始され、平岩親吉は武田遺臣を掌握し、甲斐の経営に尽力した。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに徳川勢として参戦すると、津久井城攻撃を任された徳川勢の中に、本多忠勝、戸田忠次、鳥居元忠、松平康貞らと共にその名が見られ、津久井には 平井主税なる武将によって津久井城方の首を供養したとされる首塚(富士塚)が現存している。
岩槻城攻めでは、弟の平岩助六(平岩康長)が討死した。

徳川家が関東に移封されると、これまでの功により、厩橋城主33000石となる。

徳川十六神将の1人にも称される平岩親吉は、嗣子がいないかったため、徳川家康は「そちにもう一度、我が子を与える」と、お亀の方との間にできた松平仙千代を養嗣子に与えている。多くの子をもうけた徳川家康と言えども、家臣に子を授けるのは、かなりの異例な事だ。

1600年、石田三成による関ヶ原の戦いに勝利したあとは、1601年に、再び甲斐に戻り四奉行の1人となると甲府城主63000石となった。


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1603年、先年に早世した養子・松平仙千代の弟・徳川義直(4歳)が甲斐25万石となると、駿府城にいた徳川義直の家老・守役となり、さらに直臣旗本や武田遺臣らが徳川義直の家臣に加わっている。
甲府城に在城した平岩親吉は、側近・佐枝種長らを徳川義直に近侍させて、徳川家康などの意向を受けて甲斐統治を行った。

1607年4月26日、松平忠吉が死去すると、徳川義直が遺領・尾張清洲藩主となったため、平岩親吉ら家臣団も尾張へ移り、名古屋城普請を総指揮するなど尽力。
この時、平岩親吉は附家老として尾張・犬山城主(12万3000石)となっている。
ちなみに、その後、甲斐25万石は国主・城代不在の城番制に移行した。

1611年12月30日、名古屋城・二の丸御殿で死去。享年70。


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犬山藩の所領は徳川義直に譲るように遺言していたといわれ、平岩家は断絶している。

なお、平岩氏の由来と言う平らな巨石・射割石は、現在、坂崎の八百富神社境内に移転されている。

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