本多忠勝をわかりやすく解説【どうする家康】槍が似合う戦国の豪将・徳川四天王としての生涯

本多忠勝とは

本多忠勝(ほんだ-ただかつ)は、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)にて本多忠高の長男として戦国時代の1548年に生まれた。
母の名は小夜(植村氏義の娘)。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では本多忠勝を俳優の山田裕貴さんが演じられる。

本多家は徳川家の本家に当たる安祥松平家に仕えており、三河安祥之七御普代とも称される最古参家臣が本多家である。

生年の翌年に、今川義元太原雪斎織田信広を攻めた1549年の第三次安城合戦にて、父・本多忠高は活躍するも、矢に当たり討死。
その為、叔父・本多忠真に養育されると、幼い頃から、6つ年上の松平元康(徳川家康)に仕えたとされる。

1559年に元服し、本多「平八郎忠勝と名乗った。名前の由来は「ただ勝のみ」。

1560年、桶狭間の戦いの前哨戦となる、大高城兵糧入れの直前に元服し、鳥屋根城の戦いにて初陣を飾った。
初首は15歳の時であるが、このような逸話がある。
今川氏真の武将・小原備前と戦った時、叔父・本多忠真は倒した敵の武将の首を、本多忠勝に与えて武功を飾らせようとしたが、本多忠勝は「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」と言い放つと、敵陣に切り込んで敵の首を挙げた。この時、本多忠真をはじめとする諸将は、只者ではないと感じたと言う。


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本多忠勝の愛槍は「蜻蛉切」(とんぼきり)で、通常の長槍が4.5mのところ、この蜻蛉切は6mもあったと言う。晩年には体力が落ちた為、短くしたが、この天下三名槍の複製品が現在の岡崎城にて展示されている。名の由来はトンボが飛んできて穂先にとまったとたん、真っ二つに切れてしまった為だと言う。  

1560年5月に、桶狭間の戦いにて織田信長に今川義元が討たれると、松平元康(徳川家康)は岡崎城に入り、今川家から独立。
1562年には、松平元康が清洲城を訪問し、織田信長と同盟を結んだ。

1563年、三河一向一揆が勃発すると本多正信など松平家の有力家臣や、多くの本多一族も門徒衆に味方し、内紛の様相となったが、本多忠勝は一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して、松平家康(徳川家康)側に残って戦功を挙げた。

1566年、同じ19歳の榊原康政本多正重、都築秀綱らとともに旗本先手役に抜擢されて、与力50騎が与えられた。
本多忠勝は常に徳川家康の居城がある城下に住み、旗本の将として活躍し「蜻蛉切りの平八郎」と恐れらた。

1570年、姉川の戦いでは2000を率いて酒井忠次、小笠原長忠、石川数正、榊原康政らと出陣。朝倉勢10000が徳川家康の本陣に迫ると、本多忠勝は真柄直隆に対して一騎打ちを敢行。
この無謀とも言える突進をした本多忠勝を、徳川勢は必死に助けようとして功を奏し、朝倉勢を討ち崩したとされ、織田信長にその並はずれた武勇を「花実兼備の勇士」「日本の張飛」と絶賛されている。
そして、浅井長政を側面から遅い、織田信長が挟み撃ちして、姉川の戦いは織田・徳川勢の勝利を飾った。

1572年、武田信玄との二俣城の戦いの前哨戦となる一言坂の戦いでは、山県昌景馬場信春、小杉左近を相手に、徳川家康本隊を逃がす為、本多忠勝と大久保忠佐は殿軍(しんがり)を努めて奮戦し、本多忠勝の働きによって徳川家康らは無事に天竜川を渡り撤退できた。
この時、本多忠勝は挟み撃ちにあい、待ち受ける小杉左近の敵中突破を図った。その異常な討死覚悟の様相に小杉左近は迎え撃たず、道を空けるように指示した為、本多忠勝は名槍・蜻蛉切を頭上高く振り回していたのを辞めて踏み止まると、小杉左近に名を聞き感謝の言葉を述べたと言われる。
小杉左近は「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」と称賛するなど、本多忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、徳川家康からは「まことに我が家の良将なり」と評価されている。
三方ヶ原の戦いでは、徳川家康は甚大な被害を受け、、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、中根正照、青木貞治らが討死した為、本多忠勝が撤退を進言している。

1573年、長女・小松姫が誕生。(母は側室の乙女)
1575年、嫡男・本多忠政が誕生。(母は本多忠勝の正室で、阿知和右衛門の娘・於久の方)
この年、長篠の戦いでは、本多忠勝が徳川家康に適切な進言を行い、武田勝頼勢を撃退した。
1582年、次男・本多忠朝が誕生。(母は本多忠勝の正室で、阿知和右衛門の娘・於久の方)

1582年、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死した際、徳川家康は堺を遊覧中で、随行していた供廻は、本多忠勝ら僅か34名(下記)であった。
本多忠勝、酒井忠次、石川数正、井伊直政、榊原康政、本多正盛、石川康通、服部正成、高木広正、大久保忠隣、菅沼定政、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱森川氏俊酒井重勝、多田三吉、花井吉高、鳥居おます、内藤新五郎、都筑亀蔵、松平玄成、菅沼定利永井直勝、永田瀬兵衛、松下光綱、都筑長三郎、三浦おかめ、青木長三郎
徳川家康は、織田信長の後を追って殉死しようとしたが、本多忠勝らに説得され、一行は伊賀の山道を抜けて三河に逃れた。
無事、岡崎城に戻った徳川家康は「万死を免れるも、ひとえに忠勝の力なり」と称賛している。

豊臣秀吉が明智光秀を破り、その後、清洲会議を経て、賤ヶ岳の戦い柴田勝家も滅ぼすと、織田信雄と対立。
織田信雄は徳川家康と同盟して、豊臣秀吉に対抗し挙兵した為、1584年4月の小牧・長久手の戦いとなった。


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豊臣秀吉は羽柴秀次を総大将とて、池田恒興池田元助池田輝政森長可遠藤慶隆、関成政、堀秀政堀直政多賀秀種田中吉政長谷川秀一らで三河へ迂回作戦を取ったが、戦線が伸びた事もあり、徳川家康が野戦を制した。
この時、本多忠勝は僅か500を率いて小牧から駆けつけ、豊臣の大軍の前に立ちはばかり、また、龍泉寺川にて単騎で悠々と馬の口を洗うなどし、この余裕ある振舞いを見た豊臣勢は逆に進撃をためらったと言う。徳川家を滅ぼした際には家臣に加えたいから手を出すなと、豊臣秀吉が命じたとも。
この豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉からも「東国一の勇士」と賞賛された。

徳川家康が豊臣秀吉に従属すると、本多忠勝は1586年11月9日(1588年4月とも?)に、従五位下・中務大輔に叙位・任官された。

上田合戦(第1次上田城の戦い)の結果を知ると真田昌幸の軍略に惚れ、本多忠勝は真田家を取り込むため、徳川家康に自らの娘を嫁がせることを提案し、小松姫が真田昌幸の長男・真田信之(上田城主)に嫁いだ。

1590年の小田原攻めでは、岩槻城攻めを浅野長政と共に行い、降伏させている。この時、嫡男・本多忠政が初陣を飾った。
論功行賞で、徳川家康が関東に移封されると、本多忠勝は大多喜城主(10万石、千葉県夷隅郡大多喜町)となり、安房国の里見家への備えとなった。

大多喜城

徳川家臣の禄高での1位は井伊直政の12万石であるが、10万石は榊原康政と共に家臣2位の高禄である。
この時、織田信照(織田信長の弟)が付け家老になったとも?
なお、近年の研究では最初は万喜城を拠点としたようで、大多喜城を改修して移転したのは、1591年に入ってからと考えられている。
下記は、大多喜の行徳橋にある本多忠勝の銅像。

本多忠勝の銅像

年代は不明だが、次女・もり姫(法明院)は、奥平信昌と徳川家康の長女・亀姫との間の子・奥平家昌 (のちの宇都宮城主) に嫁いでいる。

徳川家康の扇の御馬印は、1549年の安祥城攻めの時に、討死した父・本多忠高に由来するとされ、本多忠勝が継承していたが、1593年に、徳川家康が馬印に採用したとある。


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1600年、関ヶ原の戦いでは、井伊直政と共に・本多忠勝は先発隊となったが井伊直政が直前に病で倒れた為、井伊隊3600を本多忠朝と共に指揮。
本多隊2500は、嫡男・本多忠政が率いて、中山道の徳川秀忠と共に進軍した。
本多忠勝は吉川広家など西軍諸大名を調略する書状も送り、清洲城に詰める東軍諸将の軍監となった。
この時、徳川秀忠より賜った名馬・三国黒は、鉄砲の弾に当たり絶命している。

関ヶ原の戦い後は、1601年に伊勢・桑名城(三重県桑名市)10万石(12万石、15万石とも?)として本多忠勝と嫡男・本多忠政が入り、桑名藩となった。

桑名城

また、大多喜は次男・本多忠朝に別家として50000石で与えられているが、一説には徳川家康が本多忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、固辞したために次男に与えたとされている。
この本多忠朝は、のちの1609年に千葉・御宿沖で座礁したスペイン船乗員317名の命を救い、日本、スペイン、メキシコの友好交流の基を作った。

本多忠勝は直ちに桑名城を改修し、城下には慶長の町割りを断行した事により、桑名藩創設の名君と仰がれている。

西軍に味方した真田昌幸・真田幸村の助命を嘆願したが、徳川家康と徳川秀忠は強硬に死罪を主張したため、本多忠勝は「お聞き入れくだされなければ、それがしが殿と一戦仕る」と言い驚かせたとも。結果、真田昌幸・真田幸村の命は救われ、九度山での謹慎となった。

しかし、戦乱の世が終わると、本多正純などの若く文治に優れた者が台頭し、本多忠勝のような武功派は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、晩年は不遇だったとされる。

1609年6月、家督を嫡男・本多忠政に譲って隠居。


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本多忠勝は大小合わせて57回の合戦に参加したが、いずれの戦いにおいても、かすり傷一つ負わなかったと言われる。
死の数週間前、隠居の身のうえで仏像に小刀でに名前を彫った際、うっかり手を滑らせ、指に小さな切り傷を負ってしまったのが「唯一のキズ」だと伝えられている。

1610年10月18日に桑名城にて死去。享年63。

本多忠勝の銅像

本多忠勝の辞世の句は「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」であり、主君より先に逝く不忠を嘆いている。

死去した際に重臣・中根忠実と梶原忠両名が殉死した為、本多忠勝の墓の左右に埋葬されたと言う。

本多忠勝の子孫は、その後転封を繰り返して、姫路藩などを経由し、三河岡崎藩5万石となっている。

本多忠勝の供養塔

上記写真は、高野山奥の院の参道にある本多忠勝の供養塔。


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<本多忠勝から学べること>

本多忠勝の槍働きは古今無双であり、家来らは、本多忠勝のもとで合戦に出ると、背中の心配がないと言っています。
このように、本多忠勝は自らの行動により、部下を引っ張って行くタイプと言えるかと存じますが、織田信長も亡くなる直前「花も実も兼ね備えた武将である」と家臣らに紹介しています。

長篠の戦いにて武田勢が逃げる際に軍旗を捨てると「旗を捨てるとは何事か」と追いかけ、いくさが終わると悲しげにおとなしくしていたと言います。
家来が理由を聞くと「武田家の惜しい武将をたくさん失くした」と、しょげていたとされます。

一方で、主君・徳川家康に対する忠義は、一寸も揺らぐことなく「主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守ることを侍という」と言う言葉を残しています。

このように、本多忠勝は合戦で活躍する事で、忠節を示すと言う立場を良く理解しているかと存じます。
しかし、57回も戦場に出て、1度も傷を負っていないと言う事は、それだけ、本多忠勝を命を懸けて良く守った家来がたくさんいたものと言えるでしょう。
それだけ、本多忠勝は、部下からも信頼され、愛されていたと考えられます。

我々がもし上司の立場になった場合でも、本多忠勝のように部下から厚く信頼され、守られるような上司になりたいものです。

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