渡辺守綱のわかりやすい解説~槍半蔵と称された槍の名手で100貫文から1万4000石へ

渡辺守綱

渡辺守綱とは

渡辺守綱(わたなべ もりつな)は戦国時代の武将で、徳川家康と同じ1542年に三河で生まれまた。
父は松平広忠徳川家康の2代に仕えた徳川譜代の渡辺高綱。
母は渡辺義綱の娘。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では人気声優(俳優)の木村昴さんが渡辺守綱を演じられる。


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渡辺家の祖は、平安時代に活躍した嵯峨源氏の流れを汲む渡辺綱である。

1547年、父・渡辺高綱は、三河・上野上村城を攻撃した際に先鋒を務め武功を挙げている。
更に、1556年、日近城の戦いにて松平義春を助けて武功があったようだ。
このあとの頃か?、渡辺守綱は元服したようで1557年から徳川家康に仕えた。
初陣は1558年、石瀬の戦いとされ、今川義元に従う松平元康とともに織田信長の軍勢になっていた水野信元と戦った

1560年、桶狭間の戦いのあと、1561年、20歳の時、渡辺守綱は、三河・長沢城を攻撃した際に轟木武兵衛(とどろきぶへえ)を槍で討ち取ったとされる。
1562年には今川氏真との三河・八幡の戦いに参加。
酒井忠次が今川勢の板倉弾正に敗れると、松平勢は敗走。
このとき、渡辺守綱は殿(しんがり)務めて今川勢を得意の槍で撃退した。
徳川家康から「槍の半蔵」の異名を受け、徳川十六将(徳川十六神将)のひとりに数えられることになった。

<注釈> 徳川十六将は、酒井忠次、本多忠勝榊原康政井伊直政(以上、徳川四天王)、米津常春、高木清秀、内藤正成、大久保忠世、大久保忠佐、蜂屋貞次(または植村家存(植村家政)、鳥居元忠、鳥居忠広、渡辺守綱、平岩親吉服部正成、松平康忠(または松平家忠)の面々。

1563年、三河一向一揆が勃発すると、三河・渡辺氏は熱心な一向宗(浄土真宗)の門徒でもあったため、父・渡辺高綱と渡辺守綱は一揆勢に加わり、徳川家康に反旗を翻した。
翌年、針崎一揆に加わっていた父・渡辺高綱が討死しているほか、渡辺一族の者が多くが戦死した。

<注釈> 三河一向一揆に加わった徳川家の主な家臣らは、本多正信本多正重、蜂屋貞次、夏目広次、内藤清長、加藤教明、酒井忠尚、石川康正など。


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生き残った渡辺半蔵守綱は、徳川家康から帰参を許され、姉川の戦いでは、旗本一番槍をあげている。
三方ケ原の戦いでも活躍し、長篠の戦いでは山本勘助の嫡子・山本菅助を討ち取っている。
弟・渡辺政綱は、真田信綱(真田昌幸の兄)を討ち取ったともされる。
ただ、これだけの武功を挙げても出世したとは言い難く、ようやく領地が100貫文となった。

しかし不平不満を言わず、その後も小牧・長久手の戦いなどでも先鋒として参陣。
渡辺守綱の妻は平岩親重の娘(平岩親吉の妹)で、1574年に嫡男・渡辺重綱(わたなべ しげつな)が生まれている。

1590年、徳川家康が関東に移封となり江戸城に入ると、渡辺守綱は武蔵国比企郡にて3000石となっている。

1600年、1000石を加増され、騎馬同心30人の給分6000石を追加付属されて、足軽100人の組頭となった。
指揮能力にも優れていたのであろう。

1608年、徳川家康の9男・徳川義直が尾張藩主になると、渡辺守綱は付家老として三河・寺部城に入り、合計1万4000石となっている。

大坂の陣では、出陣した尾張藩主・徳川義直の初陣を後見。
1616年、徳川家康が死去すると、領国の尾張に入った徳川義直を補佐したが、渡辺守綱は1620年に名古屋で死去。享年79。


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その後も渡邊家は、徳川将軍に拝謁できる家柄として存続した。

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