松平家忠の解説 家忠日記の著者【伏見城で討死】

松平家忠




松平家忠(まつだいら-いえただ)は、戦国時代の武将であり深溝松平氏4代目当主で、父は松平伊忠(まつだいら-これただ)。
母は三河の国衆(豪族)である鵜殿長持の娘。
徳川家康の前姓で有名な松平氏には五井・竹谷(たけのや)・形原(かたのはら)といったそれぞれの本拠地の地名を冠する十八の松平氏、いわゆる「十八松平」があり、その一つが深溝松平氏である。

その深溝松平氏は松平惣領家(本家)3代目信光の孫忠定が(惣領家)5代目の長忠(長親)より深溝の地を与えられたことにはじまる一族である。
その後の深溝松平氏は好景→伊忠→家忠と続いた。


家忠は弘治元年(1555年)に三河国額田郡深溝(現愛知県額田郡幸田町深溝)で生まれ、通称を又八郎といった。
幼名は不明である。
天正5年(1577年)から文禄3年(1594年)までの家忠自身の日常や家康の動向などが綴られた『家忠日記』の著者として有名である。

また城普請の巧者としても知られ、その手腕をかわれて浜松城ほか多数の城や堀などの普請に参加しており、羽柴(豊臣)秀吉から伏見城普請の功を賞されたこともある。
ただし『家忠日記』からは、度重なる普請に対して辟易していた様子もうかがうことができ、当人としてはあまり本意ではなかったようである。
その他、同日記からは家忠が連歌や釣り、鷹狩りなどに興じている様子も確認でき、家康家臣の中でも有数の教養人であった。

今川義元桶狭間の戦いで討死した後、その支配下から独立した松平(徳川)家康は当時岡崎城を居城として今川氏に対する攻勢を強めていた。
そして三河統一後、西三河の国衆を山中城主石川家成(家成の掛川城移封後は甥の石川数正)、東三河の国衆を吉田城主酒井忠次の軍事指揮下に統率させ(一部例外あり)、父の松平伊忠は酒井忠次の組下に属している。

天正3年(1575年)に武田方との合戦である長篠の戦いで家忠は父伊忠とともに従軍したが、その戦で父伊忠は討死し、嫡男の家忠が当主となった。
その後も引き続き酒井忠次の軍制下にあった。


長篠の戦い以後も家忠は武田攻めに従事しており、天正10年(1582年)2月には駿河国田中城を攻撃し、翌日には持船城に布陣している。
この翌月に武田氏は徳川氏の同盟国である織田氏の侵攻を受け滅亡した。
11日には自刃した武田氏当主勝頼の首が甲府に送られたという知らせが家忠の耳に届いている。

興味深いのはこの武田氏滅亡後、『家忠日記』では織田信長に対する呼称が「信長」「信長様」から「上様」となっている事実である。
徳川氏と織田氏の同盟(清須同盟)成立以後、本能寺の変による信長の死に至るまで、両氏の同盟関係は維持されてきたという印象が強いが、近年では徳川家康を「織田従属大名」と表現する研究者もおり、こうした『家忠日記』の記述や織田氏との圧倒的な勢力差からみても、この頃の両氏の関係は決して対等ではなく、どちらかといえば徳川氏は織田氏の傘下(もしくはそれに近い存在)にあったようである。

また同日記では、家康に対しても天正10年頃まで「家康」と呼び捨てにしているが、天正11年(1583年)12月17日以降は従来の呼称に混じって「家康様」「殿様」といった表現が目立つようになっていく。
先述した「十八松平」は安城松平氏出身(初代は信光の子親忠)の家康が惣領の地位を確立するまで、その地位を巡って内訌(内部分裂)しており、家康の代になってからも決して権力基盤は盤石ではなかった。
そのため、家忠の家康に対する評価も「十八松平」の代表という程度のものであったようだ。

しかし、この呼称の変化が現れた天正12年(1584年)頃は、徳川家康は三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の五カ国を領有する大大名であり、松平庶家との軍事力の差は歴然としていた。
そのため家忠は、同じ松平氏出身とはいえ、惣領家としての政治的基盤を確立した家康を正式な主君として認めざるを得なくなっていたのであり、家康に対する呼称の変化はそのあらわれといえよう。

ところで、天正10年6月1日に本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、その情報が6月3日には家忠のもとにも伝わった。
急の知らせを受けた家忠は変当時堺にいた家康が伊賀・伊勢経由で大浜(現愛知県碧南市)に無事脱出したことを知り、大浜まで出迎えている。

この頃家忠には嫡子お猿(後の忠利)が誕生しており、これ以前に結婚していたことが分かる。
妻は刈谷城主水野忠政(徳川家康母方の祖父)八男水野忠分の娘であった。


天正12年に徳川家康と羽柴秀吉との間で起きた小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍は自身の甥秀次を大将とした部隊を編成して、家康の虚を突くべく三河に侵攻させたが、逆に家康本隊はその秀次軍を急襲し、池田恒興森長可らを討ち取る多大な戦果を挙げた。しかし、家忠自身は家康の命令で酒井忠次とともに小牧山を守備しており、目立った活躍はできなかった。

その後両軍は講和し、天正18年(1590年)の小田原の役(豊臣秀吉の小田原攻め)により後北条氏が滅亡すると、徳川氏は後北条氏の旧領である関東に国替となり、家忠もそれに伴って武蔵国忍1万石(武蔵・忍城)に移封され、深溝を離れた。 
しかし忍への知行宛行(主君が家臣に領地を与えること)は、徳川家康4男松平忠吉(忠吉は東条松平氏の名跡を継いでいるため姓は松平氏)が正式に入封するまでの一時的な中継ぎに過ぎず、正式な家忠の知行地(領地)はこの時点では完全に決まっていなかったようである。

天正20年(文禄元年:1592年)に下総国上代(かじろ)の地で、正式に1万石を与えられ、忍から上代に移っている。
またこの時、通称を又八郎から主殿助(とのものすけ)に改めた。
この通称の変化は、1万石を知行する身となった家忠が、それに相応しい通称を名乗ることを希望し、家康がそれを許可したことで実現したとみられる。
文禄3年(1594年)には下総国小見川(小見川城)に移封された。

文禄元年からはじまる朝鮮出兵には参加しておらず、留守役を担っている。
豊臣秀吉死後の慶長4年(1599年)には鳥居元忠・内藤家長らとともに伏見城番を務めた。


慶長5年(1600年)に家忠主君の徳川家康と石田三成の対立が決定的となり、三成は家康討伐の兵を挙げた。
7月18日には鳥居元忠・内藤家長・松平家忠らが守備する伏見城を石田三成方が攻撃。(伏見城の戦い)
この戦いで数では圧倒的に劣勢であった籠城軍は善戦したものの、最終的には寄せ手(攻城軍)の猛攻に耐えきれず、家忠をはじめとする徳川諸将は自刃した。
家忠はこの時46歳。
この後9月15日に徳川家康と石田三成の直接対決として有名な関ケ原の戦いが行われるので、この伏見城の戦いは関ケ原前哨戦と位置づけることができる。

祖父好景も永禄4年(1561年)に三河の国衆吉良氏との合戦で討死しており、祖父・父、そして家忠と深溝松平氏当主は3代にわたって壮絶な最期を遂げることになった。
法名は慈雲院賀屋源慶と伝わる。

(寄稿)今井崇文

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