遠藤慶隆 没収された郡上八幡城主に見事復帰した戦国大名

遠藤慶隆とは

遠藤慶隆(えんどう-よしたか)は戦国時代の1550年に、遠藤盛数の子として生まれました。
母は東常慶の娘で、木越城にて産んだとされています。
父・遠藤盛数は斎藤義龍に従っていましたが、井ノ口(岐阜市)にて1562年10月14日に死去します。
その為、遠藤慶隆が家督を継いだのですが、まだ13歳であった為、母・東常慶の娘が、関城主・長井道利と再婚し、長井道利が遠藤慶隆の後見となり養育しました。


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1564年に竹中半兵衛(竹中重治)が稲葉山城を奪取した際、遠藤慶隆は井ノ口の長井邸にいたため逃亡しています。
この時、従兄弟の木越城主・遠藤胤俊が、郡上八幡城を奪取し、遠藤慶隆は暗殺されそうになりますが、家臣の粥川甚右衛門と餌取六右衛門に救出され・苅安の鶴尾山城へ逃れました。
その後、長井道利が援軍を送ると、遠藤胤俊は降伏して郡上八幡城を返還しています。

1567年、織田信長が斎藤義興の稲葉山城(のちの岐阜城)を落とすと、遠藤家の家臣である鷲見弥平治と別府四郎が謀反を起こします。
しかし、遠藤慶隆はこれを鎮圧し、以後は織田家の家臣となりましたが、後見の長井道利は稲葉山城が落城した際に討死しました。
嫁いでいた遠藤慶隆の母は出家し、郡上の戸谷に草庵を建てています。

なお、時期は不明ですが、遠藤慶隆は北方城主・安藤守就の娘を正室に迎えています。


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1570年には姉川の戦いにも織田勢として出陣し、感状を受けています。
下記の甲冑は、遠藤慶隆が姉川の時に着用していたとされる甲冑です。

遠藤慶隆の甲冑

この頃には織田家の森可成の与力となっていたようですが、森可成が坂本で討死すると、坂井政尚に属しました。
しかし、1570年、志賀の陣の「堅田の戦い」にて浅井長政朝倉義景比叡山に敗れて、坂井政尚や弟・遠藤胤俊が討死し、遠藤慶隆は京の大徳寺へ、供1人だけと共に辛うじて逃れたと言います。

なお、遠藤慶隆は織田家の家臣でしたが、甲斐の武田進言とも通じ、1572年秋には家老・遠藤新左衛門を甲斐へ派遣しています。
そして、1572年11月、武田信玄は西上するべき、二俣城を破って、三方ヶ原の戦いにて、徳川家康を敗走させるのですが、武田信玄は1573年4月に駒場にて死去します。
そのため、今度は、織田信長から疑われるようになり、遠藤慶隆は粥川甚右衛門と餌取六右衛門を連れて弁明しています。
その後、加治田城主・斎藤利治の侵攻を、分家の遠藤胤基の家臣・吉田左京進らが防ぎ、1575年5月に武田勝頼長篠城を包囲した際の、長篠の戦いでは、佐久間信盛の配下として弟・遠藤慶胤が鳶ヶ巣砦にて武功を挙げました。

その後、遠藤慶隆・遠藤慶胤(えんどう-たねもと)は、織田信長の越前・大野城攻めに参戦し、1576年に織田信忠が岐阜城主となると、その配下に組み込まれました。
1582年の武田攻めでは、高山の金森長近と合流して飛騨から甲斐へと攻め込んでいます。

本能寺の変のあとは、岐阜城主となった織田信孝に従いますが、羽柴秀吉勢の上有知城主・佐藤秀方と、兼山城主・森長可が郡上へと侵攻して来た為、立花山に約3ヶ月間立て籠もり、立花山の戦いとなります。
この時、遠藤慶隆と遠藤胤基は補給路を断たれたため、餓死寸前までとなりますが、柴田勝家賤ヶ岳の戦いで敗れたため、織田信孝も羽柴秀吉(豊臣秀吉)に降伏し、遠藤慶隆も石神兵庫・遠藤利右衛門を人質として送り、羽柴秀吉の軍門に下りました。

遠藤慶隆

その後、小牧・長久手の戦いでは、遠藤弥九郎・餌取伝次郎・日置主計・猪俣五平治・和田仁兵衛ら多くの家臣を失うも、豊臣秀吉の九州攻めにも参じています。

しかし、1588年、立花山の戦いなどで豊臣家に反抗した事を理由に、遠藤家は太閤検地の後、突然、郡上八幡城2万石が没収となりました。
遠藤慶隆は加茂郡小原に7500石、遠藤胤基は犬地に5500石と減封されています。
禄高が減ったため、家臣の30%は帰農したり浪人したと言います。


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ちなみに、郡上八幡代には4万石で稲葉貞通が入り、城を大幅に改装しました。
なお、遠藤慶隆と遠藤胤基は与えられた代替地にすぐに入れず、1590年になってようやく入封するまで、町人・加取善左衛門の家に借り住まいしていたと言う話もあります。
ただし、1590年の小田原攻めには、900を率いて参陣し、朝鮮攻めでも織田秀信のもと転戦しましたが、帰国後、分家の遠藤胤基は長門・国分寺で病死しました。

1600年、石田三成が挙兵すると、遠藤慶隆と、分家を継いでいた遠藤胤直は、西軍についた織田秀信の岐阜城に入ります。
しかし、所領に戻った遠藤慶隆と弟・遠藤慶胤は、徳川家康の東軍に加担することを決めます。
この時、郡上八幡城主の稲葉貞通は西軍として犬山城に入っており、遠藤慶隆は徳川家康に書状を送り、郡上八幡城の攻撃許可をもらいました。
そして、金森可重と共に留守の郡上八幡城を攻め、八幡城の戦いとなっています。
ちなみに、遠藤胤直は西軍として上ヶ根城に籠城しました。

この頃、稲葉貞通も福島正則によって、東軍に寝返っていましたが、郡上八幡城の残兵が遠藤家に降伏したため、郡上八幡を急襲します。
そのため、一度は徳川家康より郡上八幡の所領安堵を受けた遠藤慶隆でしたが敗走しました。
しかし、遠藤慶隆は9月5日に、上ヶ根城の遠藤胤直を降伏させて、岡山本陣にて徳川家康に拝謁。

関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、稲葉貞通は豊後・臼杵城5万石に転封となったため、1600年11月、遠藤慶隆は郡上八幡城主として復帰することに成功しました。
なお、弟・遠藤慶胤が死去した、遠藤慶隆は2万7000石を領しています。

郡上八幡城の城下町

ちなみに、上ヶ根城で降伏していた分家の遠藤胤直は所領没収となり、妻とは離縁すると浪人して、京にて1604年に没したなど、諸説あります。


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遠藤慶隆は郡上八幡城を更に改修し、大坂の陣でも武功を挙げ、その後、1632年に江戸の藩邸にて死去しました。享年83。

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