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稲葉一鉄(稲葉良通)とは
稲葉一鉄(いなば-いってつ)は、土岐頼芸の家臣・稲葉通則の6男として、1515年に美濃池田の美濃・本郷城にて生まれた。
母は国枝正助の娘、又は一色義遠の娘とされる。
稲葉通勝、稲葉通房、稲葉通明、稲葉豊通、稲葉通広と、5人の兄がいた為、末子であった稲葉一鉄は当然のように出家し僧侶となり、崇福寺にて修行すると快川紹喜のもと学んだとされる。
この快川紹喜は、のち、甲斐の武田信玄に招かれ、塩山の恵林寺に入った。
国師となるも、織田信長の甲斐攻めの際には、山門に閉じ込められて生きたまま焼かれれた事でも知られる。
なお「一鉄」と言うのは法名であり、俗名は稲葉良通(いなば-よしみち)と言うが、このページでは一般的に知られる稲葉一鉄として終始ご紹介する。
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1525年、11歳の時、稲葉一鉄に最大の転機が訪れた。
小谷城主・浅井亮政が、美濃へ侵攻すると「牧田の戦い」となり、父・稲葉通則が討死。
5人もいた兄たちも、全員討死すると言う、稲葉家の危機となった。
その為、一生を僧侶として仏門に仕える予定だった稲葉一鉄は、呼び戻されて還俗すると、叔父・稲葉忠通の後見を受けて家督を継ぎ、曽根城主となった。
深芳野
稲葉一鉄の妹に深芳野(みよしの)がいる。
深芳野は一色義遠(一色左京大夫義清)の娘として1516年頃に生まれ、成長すると長身で美濃一の美人とされ、土岐頼芸の愛妾となり寵愛を受けた。
そして、深芳野はまだ、土岐氏の家臣に過ぎなかった長井規秀(のちの斎藤道三)へと、土岐頼芸から下贈されるのだが、それは1526年12月の事となる。
その翌年、1527年6月10日に豊太丸(のちの斎藤義龍)を20歳の深芳野が産んだ。
しかし、斎藤道三の側室になったとされる年月と比較すると色々と憶測を呼び、のち斎藤義龍が自分は斎藤道三の子ではないと悟る。
そして、挙兵すると斎藤道三を討つと言う事態になった訳である。
さて、稲葉一鉄の話に戻るが、稲葉家の家督を継ぐと頭角を現し、安藤守就、氏家卜全(氏家直元)と共に西美濃三人衆(美濃三人衆)と称された。
1542年に、稲葉山城主・斎藤道三が土岐頼芸を追放して美濃の国主となると、28歳になっていた稲葉一鉄も従った。
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ちなみに、1548年には斎藤道三の娘・帰蝶(13歳)が、織田信長に嫁いでいる。
なお、稲葉一鉄の正室は三条西実枝の娘で、のち家督を継ぐ稲葉貞通(いなば-さだみち)が1546年に生まれている。
1556年、斎藤義龍(30歳)が斎藤道三(63歳)を討伐した際には、稲葉一鉄(稲葉良通)や安藤守就ら旧土岐家の家臣のほとんどは、斎藤義龍に味方した。
しかし、その斎藤義龍も1561年に35歳で急死し、子の斎藤龍興が跡を継ぐが、斎藤龍興はこの時、まだ14歳であった。
その為、織田信長が美濃侵攻を開始する。
斎藤勢は、竹中半兵衛らの策略などで、当初こそ織田勢を撃退していたが、まだ若すぎた斎藤龍興は家臣の信頼を得られず、森可成・坂井政尚・堀秀重・斎藤利治・明智光秀らが織田家に寝返る。
それでも、斎藤龍興は酒に溺れて政務も疎かにした為、1564年2月、竹中半兵衛と弟・竹中重矩や、舅・安藤守就らが斎藤龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)をわずか16人(17人説も)で乗っ取ると言う事件が起こったのだ。
1566年9月には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が川並衆の蜂須賀小六や前野長康らの協力を得て墨俣城を築城。
斎藤家は衰退の一途を辿り、1567年8月1日、ついに稲葉一鉄(53歳)や氏家直元(氏家卜全)、安藤守就らも織田家への内応を約束し、すぐに織田信長(33歳)は稲葉山城を落として美濃を手に入れた。
こうして織田家に従った稲葉一鉄と稲葉貞通は、1568年の観音寺城の戦いでも第1陣を任されており、1570年、浅井長政との姉川の戦いでも徳川家康と共に、織田信長の危機を救う戦功を挙げている。
この時、織田信長は家臣の内から助勢されると徳川家康に配慮したのだが、徳川家康は稲葉一鉄をただ一人指名したと言われている。
そして、織田信長は勲功第一を稲葉一鉄としたが、第一は徳川家康であると譲った。
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稲葉一鉄は頑固な一面もあったため「頑固一徹」の言葉が生まれたともされる。
1561年から稲葉一鉄に仕えていた斎藤利三は、1579年に稲葉一鉄(稲葉良通)と喧嘩別れしてから、親戚関係だった明智光秀に1580年頃仕えたと考えられている。
稲葉一鉄は子の稲葉貞通と共に、長篠の戦い、加賀の一向一揆攻め、伊勢・長島城の一向一揆との戦いなどでも活躍するが、1579年頃、家督を子の稲葉貞通に譲ると、稲葉一鉄は美濃・清水城へ移った。
稲葉貞通
稲葉貞通の正室は斎藤道三の娘であり、曽根城主となった稲葉貞通は、1582年、織田信長の甲斐攻めにも従い、織田信忠の指揮のもと武田勝頼を滅ぼす。
稲葉一鉄は凱旋した織田信長を、領内の呂久の渡しにて饗応している。
ちなみに、武田家を頼っていた土岐頼芸が発見されると、稲葉一鉄が働きかけ、美濃にて余命の半年間を過ごしている。
なお、稲葉貞通は、上杉景勝に備える為、信濃・飯山城の守備を命じられていたが、この時、芋川親正が煽動した一揆により窮地に陥った。
森長可が援軍として駆けつけ救われているが、稲葉貞通は飯山城代の任を解かれ、代わりに森長可の家臣・林為忠が飯山城に入った。
ただし、そのまま信濃に残った森長可は本能寺の変のあと、大変な苦労をして尾張へと流れているため、ある意味、稲葉貞通は運がいい。
本能寺の変の際、稲葉貞通は京都にいたが、この時も美濃へ無事に帰還を果たした。
なお、この時、織田信長から追放されていた安藤守就が挙兵し、稲葉家の北方城を奪って本田城を攻撃したため、稲葉一鉄がすぐに討伐し、安藤守就は一族共に自刃している。
また、稲葉一鉄は娘婿の揖斐城主・堀池半之丞を攻撃して支配下に置くと、この時、孫の福(春日局)を稲葉家に引き取って、稲葉一鉄の側室の子・稲葉重通が美濃・清水城(12000石)にて養育したようだ。
福(春日局)は、のちに稲葉重通が養子に迎えていた稲葉正成の継室となり、稲葉正勝らを産んだ。
そして、1604年に徳川家光の乳母に抜擢され、 江戸城大奥の礎を築く。
清洲会議のあと、岐阜城に織田信孝が入って美濃を統治したが、稲葉家は独立勢力との考えがあり対立したため、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従った。
羽柴秀吉は稲葉貞通の継室に織田信秀の娘(織田信長の妹)・稲葉夫人を嫁がせ、のち池田恒興が大垣城主とになったあとも、稲葉家は一定の独立を保っている。
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1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、不破氏の西保城を攻めたが、その間に、所領を織田信孝によって焼き討ちされている。
なお、稲葉貞通は、主君だった織田信長の3男・織田信孝に対抗するのは心苦しかったようで、家督を子の稲葉典通に譲った。
しかし、1587年の九州攻めでは親子で出陣したが、子の稲葉典通が豊臣秀吉の怒りをかって、稲葉典通は伊勢の朝熊山にて謹慎したため、再び稲葉貞通が家督を継承している。
小牧長久手の戦いを最後に、稲葉一鉄は第一線から退いたようだ。
1584年、70才にして美濃・清水城にて隠居生活に入った。
1587年、九州攻めから凱旋した羽柴秀吉を、西宮にて出迎え、大坂城・山里丸の茶室に招かれている。
そして、1588年11月19日、稲葉一鉄は美濃・清水城にて死去した。享年74。
菩提寺は月桂院で、稲葉一鉄の墓などが残る。
同じ1588年、稲葉貞通は郡上八幡城に移封となり、郡上八幡の整備を開始した。
1590年の小田原攻めの際は、稲葉貞通は1200を率いて、織田信雄と韮山城の北条氏規を攻撃した。
朝鮮出兵でも渡海したが、この時、謹慎していた稲葉典通は豊臣秀勝に仕えて戦功を挙げている。
しかし、稲葉典通はのち豊臣秀次に仕えたため、1595年の豊臣秀次事件にて連座し処罰された。
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1600年の関ヶ原の戦いでは、稲葉典通も許されており、父・稲葉貞通と共に西軍の石田三成に協力して、犬山城に入った。
これは、稲葉貞通の継室の父と考えられている岐阜城主・織田秀信の命を受けて、徳川家康の侵攻を阻止するため犬山城を守備したものであったが、旧交のあった福島正則より東軍参加を勧められると、稲葉貞通と稲葉典通は東軍に寝返った。
しかし、東軍の遠藤慶隆、金森可重らが、旧領を回復させようと郡上八幡城を、引き続き攻撃していた為、救援に向かう。
遠藤慶隆はかつて郡上八幡城主でしたが、豊臣秀吉によって改易されていた為、もう、東軍・西軍関係なく、この機に乗じて奪還しようとしていたのだ。
その為、八幡城の戦いと言う大きな合戦となり、双方多数の死傷者を出すが和睦が成立すると、両陣営とも徳川家康の元を訪れて東軍本隊に合流した。
そして、稲葉貞通は加藤貞泰と共に、長束正家が逃れた水口城攻めで功績を挙げたあと、最初は西軍に属したことを詫びる為、薙髪して謹慎している。
本来であれば本領安堵程度のところ、徳川家康は、4万石から5万石と加増して豊後・臼杵城主を命じた。
稲葉貞通は、1603年9月3日に死去。享年57。
家督は、再び稲葉典通が継いでいる。
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