島津の英主と呼ばれる島津貴久と衰退した宗家の島津勝久との違いは?~薩摩・内城と清水城も

島津貴久とは

島津貴久(しまづ-たかひさ)は、1514年5月5日、島津忠良(島津日新斎)の嫡男として、田布施亀ヶ城にて生まれました。幼名は虎寿丸です。
母は、母:島津成久の娘で寛庭夫人と呼ばれています。
父は伊作忠良とも言い、薩摩島津家の分家となる伊作家・相州家の当主な訳ですが、人道を守り善政を敷いたので領民から慕われていたと言います。


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このように島津家は分家が多いのですが、宗家の第11代・島津忠昌の死後、守護職を継いだ第12代・島津忠治、その弟である第13代・島津忠隆と若年で相次いで病死します。

そのため、島津家宗家の第14代当主に、島津勝久が就任しました。

島津勝久とは

島津勝久(しまづ-かつひさ)は、島津忠昌の3男で、母は天真夫人(大友政親の娘)です。
しかし、まだ17歳の若さと言う事もあり政権基盤が弱く、島津勝久の妻の兄となる有力分家の薩州家第5代当主・島津実久が権力をほしいままにします。

そして、遂には跡継ぎを巡って島津実久が兵を挙げたため、1526年11月、島津勝久は、島津貴久の父・島津忠良(島津日新斎)に助けを求めました。
この時、島津勝久は島津貴久を養子として迎えて、家督を譲り隠居しましたが、これは島津忠良側から要求されたとも言われています。

いずれにせよ、13歳の島津貴久が元服して鹿児島清水城に入り、それを見届けた父・島津忠良は33歳で剃髪して愚谷軒日新斎と号して補佐しました。

薩摩・清水城

薩摩・清水城は平地にあり、裏山を後詰めの城にした二重構造で、以後、島津氏の城として基本形となっています。
現在は館跡に鹿児島市立清水中学校がありますが、裏山の遺構は結構残されていると言います。
ただし、裏山は道が整備されていないので、入れません。
下記は、東福寺城から望む清水城の詰めの山です。

東福寺城から望む清水城

薩摩・清水城の場所は下記の地図ポイント地点となります。

さて、島津貴久の正室は肝付兼興の娘で、のち継室として入来院重聡の娘・雪窓夫人を迎えています。

島津宗家の家督を狙っていた島津実久が黙っているはずもなく、島津勝久を豊後へ追放した上で、島津貴久と父・島津忠良を滅ぼして、家督を我が物にしようとします。
1527年6月5日、加治木城の伊地知重貞、帖佐城の島津昌久(島津忠良の姉婿)に兵を挙げさせると、6月7日に島津忠良(島津日新斎)はすぐさま反乱を鎮圧しました。
しかし、この間、島津実久は出水・串木野・市来の兵を率いて、島津忠良の所領となる伊集院の一宇治城、日置城を攻略し、更に加世田・山田の兵で谷山城を落としました。

窮地に陥った島津貴久は、清水城を枕に討死する覚悟を決めますが、園田実明の進言を受け入れて、僅か8人の家臣と共に6月15日の夜、鹿児島から脱出して、田布施の亀ヶ城に逃れました。
家督を譲ってしまったことを後悔していた島津勝久は、川上忠克の説得を受けると6月21日に還俗して伊作から鹿児島に戻って守護職に復帰しています。
そのため、島津勝久との養子縁組は解消され、島津勝久が守護職復帰を宣言しています。

そのため、父・島津忠良は、島津勝久の隠居城であった伊作亀丸城を落とすと、自身の居城とました。

1529年には、豊州家の島津忠朝、新納忠勝、禰寝清年、肝付兼演、本田薫親、北郷忠相、樺山善久、島津運久、島津秀久、阿多忠雄ら島津一族が鹿児島・清水城にて、島津勝久に島津忠良と和解するよう求めますが失敗しましたが、伊作亀丸城の島津忠良は着々と国人衆を味方に取り込んだようです。

1533年3月27日、島津忠良・島津貴久は反攻を開始して日置南郷城主・桑波田栄景を攻めています。
また、12月には日置城主・山田有親が島津忠良(島津日新斎)に降伏しています。


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島津勝久は政務を怠り、うるさいことを言う家老らを遠ざけて為、重臣の川上昌久が、1534年に、勝久の近臣・未弘忠重を誅殺してしまいます。
この反乱にビックリした島津勝久は清水城を退去して、禰寝重就を頼り大隅根占へと逃れました。
しかし、1535年に清水城に戻ると、川上昌久を大興寺にて切腹においやり、川上氏の居城を攻めました。

こうした振舞いに対して、島津宗家の重臣らは薩州家の島津実久を頼ったため、1535年8月、鹿児島の街が炎上すると島津勝久は帖佐城に逃れました。
9月には、祁答院重武、肝付兼利らとともに島津勝久は鹿児島の奪還を試みますが、肝付兼利が討死したため、島津勝久は勝久は直臣にも見捨てられて帖佐に完全に移り、出水の島津実久が鹿児島を占拠しました。

島津勝久は、再起を掛けて、日向・真幸院の北原氏と大隅・帖佐の祁答院氏の協力により反撃に出ますが、再び敗れて逃亡。
最終的に日向・庄内の北郷氏を頼りました。
のち、島津忠良・島津貴久と再度連携して一時的に巻き返しますが、北郷氏を含めて島津貴久擁立へ動いたため、結局、母の実家である大友氏を頼って豊後まで亡命しています。
そのまま薩摩に復帰することなく、豊後の沖の浜という地にて、1573年10月15日、71歳で島津勝久は死去しました。

さて、島津宗家の重臣から支持された島津実久は薩摩守護を継承することになり、島津勝久の宗家復帰を黙認していた島津忠良・島津貴久親子との対立が決定的となります。

島津忠良は、伊集院城を奪還し、谷山・川辺などを転戦して薩摩半島を掌握し、加世田城も攻略しました。
島津勝久と和解すると北薩摩・渋谷氏一族も味方にし、島津実久の本拠地・出水と鹿児島を遮断しようとします。

そして、1539年1月には、加世田・別府城の戦いにて、島津実久勢を破って南薩摩をほぼ制圧します。
8月の市来鶴丸城の戦いでは、島津実久の弟・島津忠辰を討ち取ったことで、島津実久は鹿児島を放棄して本拠地・出水に撤退しました。

こうして、島津忠良・島津貴久(26歳)は、島津宗家の家督を相続して守護職に復帰を果たし、戦国大名として名乗りを上げました。
しかし、急激な台頭に島津一門や薩摩・大隅の国人は動揺し、鹿児島と薩摩半島以外には島津貴久の支配がなかなか及びません。

1541年には、豊州家・島津忠広、肝付兼演、本田薫親らが共謀して、豊州家以下13氏が島津勝久の子・島津益房を擁立して、島津貴久に味方する大隅生別府の樺山善久を攻めています。
この時、島津忠良・島津貴久は、本田薫親を調略して13氏の連合を崩すことに成功し撃退しました。

1545年、朝廷の上使・町資将が薩摩を訪問し、島津宗家代々の当主が任官されてきた修理大夫に島津貴久が認められ、ようよく公認の国主となります。
しかし、室町幕府から守護として正式に認められるのは、1552年のこととなります。
1549年には肝付兼演が降伏、勝手な行動が多かった本田薫親を追放します。
1550年、本拠地を伊集院城(一宇治城)から鹿児島へ移しますが、清水城は避けて、新たに内城を築いて、以後、戦国大名・島津家の本城としました。
なお、父・島津忠良は加世田に本格的に隠居しましたが、まだ実験は握っていたようです。

薩摩・内城(うちじょう)は現在、大龍小学校になっています。

薩摩・内城

内城がある場所は下記の地図ポイント地点です。
清水城から800mくらいしか離れていません。

内城があった辺りは、薩摩藩が成立したあと江戸時代にも使われており、幕末には篤姫の実家となる、今泉島津家の屋敷もすぐ隣の区画にありました。

今和泉島津家本邸跡

話を戻しますが、薩州家・島津実久が1553年に死去すると、あとを継いだ子の島津義虎は、島津貴久の子である島津義久の長女・於平を正室に迎えて和睦し、伊作家・島津貴久に臣従しました。

なお、島津貴久の子としては、1533年に嫡男・島津義久が伊作城で生まれていました。
次男は島津義弘は1535年、3男・島津歳久は1537年、4男・島津家久は1547年生まれで、この4兄弟がさらに戦国時代の島津家を盛り立てていきます。

1554年、島津家に降った加治木城主・肝付兼盛(肝付兼演の子)を、敵対する蒲生範清・祁答院良重・入来院重朝・菱刈重豊らが攻めます。
この時、島津貴久の嫡男・島津義久と、次男・島津義弘、3男・島津歳久は初陣して、島津貴久と岩剣城を攻略すると、岩剣城を奪還しようとした蒲生範清らを撃退し、祁答院重経・西俣盛家などを討ち取りました。
この時の岩剣城攻めにて、家臣の伊集院忠朗が種子島に伝来した鉄砲を、初めて実戦に使用したと言われており、日本で初めて火縄銃を戦闘で使ったのは、伊集院忠朗とも、伊集院家が従っていた島津貴久とも言われます。


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1555年に島津貴久は、帖佐平佐城を攻略し、1556年には松坂城も攻めています。
支城を3つ失った大隅の蒲生範清は本拠・蒲生龍ヶ城に火にかけて、祁答院へと逃れました。

この頃から、嫡男・島津義久、島津義弘や島津歳久らの活躍が目立つようになっており、1561年、廻坂の戦いでは4男・島津家久も初陣を果たしています。

そして、1566年、島津貴久(53歳)は伯囿と号して加世田館に隠居し、家督と内城を島津義久(34歳)に譲りました。

なお、島津忠良(島津日新斎)は1568年12月13日に加世田にて死去。享年77。
島津貴久も1571年6月23日に亡くなりました。享年57。

その後、島津義久・島津義弘らは「九州の桶狭間」とも呼ばれる、木崎原の戦いにて少数の兵力で伊東祐安伊東祐信、伊東又次郎らを討ち取り、薩摩、大隅、日向を平定し、九州制覇へ向かったのです。

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