島津家久とは~釣り野伏せにて数多くの敵将を討ち取った島津家の軍師


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島津家久(しまづ-いえひさ)は、薩摩・島津氏の第15代当主である島津貴久の4男として、1547年に生まれました。幼名は又七郎です。
母は側室・本田親康(本田丹後守親安)の娘であるが、父が討死すると母に連れられて実家・肥知岡家で育ったため、肘岡氏の娘、橋姫、少納言とも言います。

3人の兄、島津義久島津義弘、島津歳久とは母が異なりますが、兄弟仲は非常に良かったと伝わっています。

祖父の島津忠良からは「軍法戦術に妙を得たり」と島津家久は若い頃から称され、1561年7月、15歳のとき、大隅の肝付氏との廻坂の戦いで初陣しました。
この時は、初陣ながら敵将・工藤隠岐守を槍にて討ち取っています。

1566年、島津家久が20歳のときに父・島津貴久(53歳)が隠居し、兄・島津義久(34歳)が家督を相続し、内城主となりました。

1570年には正室・樺山善久の娘との間に、嫡男・島津豊久が誕生しています。

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1575年、島津家久は伊勢神宮などを参拝するため上洛し、京では公家衆や堺の商人らと交流しました。
また、居眠りしながら行軍する織田信長の姿を見たり、明智光秀に招待されると坂本城や多聞山城で接待を受けています。

島津勢に攻め込まれた日向の伊東義祐は、1577年末に本拠地・佐土原城を捨てて、豊後の大友宗麟を頼って逃走を図ります。
そのため、島津家久(31歳)が佐土原城となり、日向方面を担当しました。

そして、1578年、耳川の戦いでは島津義久に従い、島津義弘、島津歳久、島津以久、伊集院忠棟、鎌田政近、村田越前、本多親治、山田有信、北郷久盛らと出陣します。
この時、島津家は「釣り野伏せ」の戦術にて、大友勢の臼杵鎮続、田北鎮周、蒲池鑑盛、佐伯惟教、角隈石宗、斎藤鎮実、吉弘鎮信と言った重臣を数多く討ち取り、壊滅的な打撃を与えました。

その後、佐賀城主・龍造寺隆信が台頭し大友傘下から離れると、九州の覇権は島津家と龍造寺家の二者で争うようになります。

龍造寺家からの離反した有馬晴信が、島津家に援軍を要請すると、戦上手の島津家久が、島津勢の総大将となり、島津忠長、島津彰久、島津豊久、新納忠元、伊集院忠棟、平田光宗、上原尚近、山田有信、川田義朗、川上忠智、川上忠堅、鎌田政近、猿渡信光、赤星統家を率いて参陣。

1584年の沖田畷の戦いとなると、兵力的に劣っていながらも、海と山に挟まれた狭い湿地帯に大軍の龍造寺勢をおびき出します。
そして「釣り野伏せ」戦法を用いて、敗北を装って退却し、敵が狭い箇所に入ったところを伏兵にて迎え撃ち、敵の総大将・龍造寺隆信や、成松信勝、鍋島直茂の実弟・龍造寺康房、小河信俊、百武賢兼らを討ち取りました。
嫡男・島津豊久(15歳)はこの戦いが初陣です。

こうして、島津家が九州において最大勢力となるのに貢献し、初めて4000石を賜って、島津家久(38歳)は部屋住みを脱したとされます。

しかし、豊臣秀吉の九州攻めが近づいており、龍造寺家の重臣・鍋島直茂は密かに豊臣家に接近し、九州攻めが始まると、龍造寺勢はは島津征伐の先鋒を務めました。

仙石秀久を大将に長宗我部元親長宗我部信親、十河存保、大友義統、依岡左京など豊臣勢6000とは、1586年12月12日に戸次川の戦いとなります。
総大将の島津家久は伊集院久宣らの島津勢を率いて戦いますが、双方4000もの死者を出す激戦となるも、釣り野伏せが功を奏して、長宗我部信親・十河存保らを討ち取り、島津家久(41歳)が大勝を納めました。

やがて、豊臣秀吉が大軍を九州に派遣すると、本国の島津義久・島津義弘が降伏する前に、最も早く豊臣秀長と島津家久は単独講和しました。

しかし、1587年6月5日、佐土原城で島津家久は急死しました。享年41。

島津家、または豊臣家による毒殺など諸説ありますが、豊臣秀長の側近・福地長通が、島津義弘に宛てた書状にて、島津家久が病気であると記載していることから、病死したと考えられています。

家督は子の島津豊久が継ぎ、佐土原城主となりますが、1600年の関ヶ原の戦いでは壮絶な最後を遂げます。

釣り野伏せ戦法によって、名の知れた武将をこれだけ数多く討ち取り、武門の誉れここに極まったと言える「島津家久」がもしいなければ、島津家はここまで九州で勢力を伸ばせなかったかも?知れません。

島津家久の墓は、鹿児島県鹿児島市池之上町の福昌寺跡にあります。

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