伊東義祐~日向から南九州の覇権を争うも伊東崩れで没落した名門の一喜一憂

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伊東義祐

伊東義祐

伊東義祐(いとう-よしすけ)は、都於郡城主・伊東尹祐の子として1512年に生まれました。
母は美女であったとされる側室・福永祐炳の娘です。

1510年生まれの兄・伊東祐充(いとう-すけみつ)が、父・伊東尹祐が陣中で病死すると日向伊東家の9代当主となります。
しかし、まだ14歳であったため、母の父である福永祐炳ら外戚の福永氏が国政を牛耳るようになりました。

その頃、伊東家は都之城北郷忠相を攻めていましたが、野々美谷城の割譲と北郷忠相の娘を娶って和睦しました。
しかし、福永祐炳の横暴によって、伊東家の家臣らは反発し、落合兼由、稲津重由、右松祐宣、川崎良代ら多く「若き衆」も弾圧されます。
そんな折り、兄・伊東祐充が1533年に24歳の若さで病死すると、叔父・伊東祐武が「伊東武州の乱」を起こし、福永祐炳ら福永一族4人を自害に追い込み、都於郡城を占拠しました。


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残された伊東義祐と、弟の伊東祐吉(いとう-すけよし)と共に、日向を去って上洛しようとしました。
しかし、叔父・伊東祐武に対抗するべく、財部に引き返し家中を二つに分けた御家騒動となります。
この時、文武両道の家臣として名高い、荒武三省の活躍もあって、叔父・伊東祐武は自害し、都於郡城を奪回することに成功します。
荒武三省が米良一揆にて討ち死にしても、一族である長倉祐省の後ろ盾を受けますが、伊東義祐ではなく、この時、弟の伊東祐吉が、伊東家の10代当主になり、宮崎城を居城としました。
そのため、伊東義祐は出家を余儀なくされたようです。

しかし、伊東祐吉は1536年6月8日に病死。享年20。
こうして、1536年7月10日に還俗した伊東義祐(伊東祐清)25歳は、佐土原城へ入って伊東家の11代当主となりました。
佐土原城に入ったのは、本城の都於郡城が焼失していたためですが、翌年にはその佐土原城も火災となったため、宮崎城に移っています。
1543年には佐土原城を再建しています。

もともと、伊東家は名門です。
先祖は、曾我兄弟の仇討ちで知られる工藤祐経の子・伊東祐時で、母は伊東祐親の娘・万劫御前です。
母方の静岡県の伊豆半島にある伊東市のところを知行しましたが、伊東祐時の子・伊東祐光の子孫が日向へ下向して、のちの日向伊東氏となりました。

そして、1537年、伊東義祐は従四位下に叙せられ将軍・足利義晴の偏諱を受け「義祐」と改名します。
天文10年(1541年)には、大膳大夫、1561年には従三位に叙せられ「三位入道」を称しました。
また、永禄7年(1564年)には室町幕府の相伴衆に任じられていますが、1560年には鵜戸神宮の本殿を造影するなど権力もつけていました。


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飫肥の島津豊州家と日向南部の領有を巡って抗争し、1568年には2万の大軍を率いて島津忠親が守る飫肥城を5ヶ月間包囲します。
島津貴久は伊東義祐(58歳)と和睦し、伊東家は飫肥を手に入れるなど島津家を圧倒し、佐土原城を本拠に四十八の支城(伊東四十八城)を擁して、日向伊東家の最盛期を築きました。

しかし、島津貴久が死去したあと、1572年5月に加久藤城を相良義陽と連携して3000にて攻めますが、島津義弘率いるわずか300の軍勢に、木崎原の戦いにて敗れます。
この時、伊東祐安伊東祐信ら五人の大将だけでなく、落合兼置、米良重方など名だたる伊東家の武将が討死し、次第に伊東家は衰退していきます。

1576年、伊東四十八城の一つである長倉祐政の高原城を、島津義久が3万にて降伏させます。
翌日には、小林城・須木城の米良矩重も島津家に寝返り、近隣の三ツ山城、野首城、三ツ山、岩牟礼城などが島津家に降伏しました。
野尻城主・福永祐友は何度も伊東義祐に援軍要請しますが、その訴えは、栄華驕慢の日々を送る伊東義祐の側近によって握り潰されており伊東家はやられるままでした。

1577年には島津忠長が櫛間城を攻め落とし、飫肥城主である三男・伊東祐兵が奪還を試みますが逆に反撃され、敵に飫肥城を包囲されてしまいます。
また、日向北部からは土持親成が門川領へ侵攻したため、伊東家は北と南から挟み撃ちされます。

この苦境に伊東義祐は、1577年8月、家督を次男・伊東義益(1569年病死)の嫡男で、嫡孫である伊東義賢に譲りました。
このとき、伊東義賢(いとう-よしかた)はまだ11歳です。
伊東義祐が父代わりに養育していたようですが、当然、11歳の子に当主は務まりませんので、実権は祖父・伊東義祐が握っています。
そして、12月、母方の野尻城主・福永祐友が島津家に寝返り、決定打となりました。


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続いては、内山城主・野村刑部少輔文綱(野村松綱の子)、紙屋城主・米良主税助も離反したため、12月8日、伊東家の諸将を総動員して紙屋城を奪回しようとしました。
しかし、背後から伊東家の譜代家臣も謀反の動きとなったため、佐土原城に戻っています。

豊後落ち・伊東崩れ

12月9日、佐土原城にて朝から軍議となりますが、籠城して島津勢を迎え撃とうと言う声はなく、飫肥城から逃亡してきた伊東祐兵も合流します。
そして、お昼を過ぎたころ、伊東義祐は佐土原城を捨てて、次男・伊東義益の正室である阿喜多の叔父・大友宗麟を頼って逃亡しました。

豊後落ち・伊東崩れとも呼ばれます。

大分へ向かうにしても、進路上の新納院財部城主・落合兼朝も離反したことから、伊東義祐は切腹しようとしたのを家臣らに止められたと言います。
そして、猛吹雪の中、迂回して高千穂を抜けて落ちました。
その中には、のち天正遣欧少年使節の一人となる伊東マンショ(8歳)の幼い姿もありました。
綾城から脱出していた伊東マンショは家臣・田中金太郎(堀川国広)に背負われ豊後に落ち延び、有馬にてキリスト教と出会うのです。

最初150名いた一行も、途中、崖から落ちたり、動けなくなって自害した者もおり、豊後に到着した際には、わずか80名になっていたと言います。


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豊後に入った伊東義祐は大友宗麟に支援を要請し、天正6年(1578年)、大友宗麟は4万とも言われる大軍にて門川・松尾城の土持親成を攻略します。

これに対して、島津義久は島津忠長らを日向へと派遣し、高城付近にて「耳川の戦い」となりました。

島津勢は伏兵を駆使して戦った耳川の戦いにて、大友勢は約3000が戦死し、田北鎮周、蒲池鑑盛、佐伯惟教、角隈石宗、斎藤鎮実、吉弘鎮信といった有力家臣を失う大敗となりました。
大友宗麟は単身で豊後へと逃走し、島津家は薩摩・大隅・日向の支配を確固たるものとします。

領国の回復も絶望的となった伊東義祐らも大分にいられなくなり、伊東祐兵、川崎祐長(河崎祐長)ら20余人を連れて四国の伊予に渡ると湯築城主・河野通直を頼り、河野一族・大内栄運に匿われました。

その後、伊東義祐・伊東祐兵らは1582年に播磨に渡の、織田信長の家臣・羽柴秀吉に仕えていた同族の伊東長実の仲介にて、豊臣秀吉の家臣に加わります。

なお、伊東義祐は、かつて一国の太守であったと言うプライドから豊臣秀吉の家臣になることを断ります。
そして、伊東祐兵の仕官を見届けると、供の黒木宗右衛門尉と一緒に放浪の旅に出ますが、病となり、伊東祐兵の屋敷があった堺へ船で向かいました。
しかし、船の中で衰弱したことから、堺の砂浜にて行き倒れになっていたところを、偶然にも知った伊東祐兵の従者が救助して堺の屋敷に連れていきましたが、7日余りで死去したと言われています。享年73。


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子の伊東祐兵は、関が原の戦いの際に黒田官兵衛を通じて東軍に内通し、飫肥藩5万7千石の所領安堵となりました。

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