伊東マンショとは~天正遣欧少年使節の代表者である正使を務める

伊東マンショ

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伊東マンショ(いとう-まんしょ)の名前を歴史の授業で一度は聞いたことがある人も多いと思います。
使節のメンバーである伊東マンショ、千々石ミゲル中浦ジュリアン原マルチノ。ちょっとインパクトのあるこの人達の名前「なんか聞き覚えがあるなぁ~」と思う人もいるのでは…?

前回は天正遣欧少年使節について、ざっくりと紹介しましたが、使節のメンバーについてはあまり触れませんでした。
同じ学校を出て、一緒にヨーロッパに行き、同じものを見て帰って来た4人ですが、帰国後はそれぞれ違った道を歩むことになります。

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今回は使節4人の中から、正使 伊東マンショの生涯を紹介します。

過酷な幼少期

伊東マンショ。
本名 伊東祐益は永禄12年(1569年)頃、都於郡(現在の宮崎県)に生まれました。
父は日向伊東氏10代目当主の伊東義祐に仕えた侍大将・伊東祐青。
母は伊東義祐の娘で町の上です。
マンショが生まれた頃、祖父の伊東義祐が日向全域に48個の城を築城したことで、伊東氏は現在の宮崎県ほぼ全域を統治していました。
『伊東四十八城』と呼ばれるこの城は伊東氏の繁栄を表していますね。
しかし天正5年(1577)薩摩(鹿児島県)の島津軍が日向に侵攻してきます。
父・伊東祐青も島津との戦いで戦死してしまいました。
マンショを含めた伊東氏は都於郡を捨て、血縁である大友氏の支援を受けるために豊後(大分県)に逃れます。
季節は12月。一行は雪の山中をひたすらに歩き続けました。
途中で凍死者や、自害してしまう人もいました。
まだ10歳にも満たないマンショでしたがこの過酷な環境下、無事に逃げ延び、豊後の野津に辿り着きます。
やっとの思いで辿り着いた豊後でしたが、大友氏とは遠縁だったマンショらは支援を受けることができず、孤立していました。
さらに、ここで母の町の上が再婚。このことが原因かは不明ですが、マンショはこの頃、母親の元を離れ、豊後府内で放浪生活を送っていました。
その恰好はまるで乞食のようであったとか。

キリスト教との出会い

豊後を治めていた大友宗麟が南蛮貿易に力を入れていたため、この頃、マンショがいた豊後府内にはキリスト教文化が花開いていました。
町には教会が建ち、外国人商人や宣教師が行き交っていました。
一人で放浪生活を送っていたマンショは、ペトロ・ラモンと出会います。
彼は長崎から豊後に赴任にてきたスペイン人の神父でした。
マンショを不憫に思ったラモン神父はマンショを保護し、府内の教会に案内しました。
ここでマンショはキリスト教や西洋文化に触れ、洗礼を受けます。
「マンショ」という洗礼名はこの時に付けられました。ちなみにマンショは自身の洗礼名に「満所」という漢字を当てています。
天正8年(1580年)有馬に初等神学校セミナリヨが開設され、マンショは1期生として入学しました。

有馬のセミナリヨ跡

そして、ちょうどこの頃、ヴァリニャーノは少年使節派遣の計画を立てていました。
遠縁ではありますが、大友宗麟の親戚であったマンショは使節の正使に抜擢され、天正10年(1582年)長崎からローマへ向けて出発します。

天正遣欧少年使節の正使として

長崎出発から2年かけて辿り着いたヨーロッパで、マンショは使節の正使として華々しく活躍します。
マドリードで行われた国王フェリペ2世との謁見の際には、マンショが最初に国王の手に接吻の礼をし、日本語で挨拶をしました。
また使節が履いていた草履を珍しがった国王に対し、マンショは自身の片方の草履を脱ぎ、国王に差し出したといいます。
マンショの気が利く一面が見えるエピソードですね。
天正13年(1585年)には4人揃って、イタリアで社交界デビューを果たします。
ここでマンショは主催者であるビアンカ公妃直々にダンスのパートナーに指名されます。
マンショは一瞬ためらいましたが、引率のメスキータ神父に許可をもらい、静かに立ち上がると堂々と踊り出したといいます。
目的であった、ローマ法王グレゴリウス13世との謁見でもマンショが挨拶をしました。
その後もヨーロッパ各地で受ける歓待に対し、使節の代表として挨拶をするのは正使であるマンショの役割でした。

司祭としての布教活動

天正18年(1590年)に帰国した使節は、司祭叙階を目指して勉学に励みます。
伴天連追放令により、彼らの行く先には暗雲がかかり始めていましたが、帰国の翌年にノビシアード、その2年後にはコレジヨに入学しました。
マンショは3年間のマカオ留学を経て、帰国後は出身校の有馬のセミナリヨで音楽とラテン語の講師を務めました。
後輩達にヨーロッパでの体験談を聞かせたりもしたのではないでしょうか。
そして、慶長13年(1608年)マンショはついに司祭に叙階されます。この時、39歳でした。
司祭となったマンショは、キリスト教弾圧の嵐が吹き荒れる中、信者の組織を統制し、萩、山口、日向、小倉、下関と精力的に布教活動を続けます。
しかし布教の長旅で体を壊し、司祭叙階から4年後の慶長17年(1612)11月13日、メスキータ神父と原マルチノに看取られながら、息を引き取りました。43歳でした。
遺体は長崎にあった岬のサンタ・マリア教会に葬られましたが、徳川幕府のキリシタン弾圧により、教会が破壊され、彼の墓も壊されてしまったといいます。
近年、イタリアでドメニコ・ティントレットが描いたマンショの肖像画が発見されました。
洋服に身を包んだマンショの表情は使節の正使として、その役目に意欲を燃やしているように見えます。
キリシタン弾圧の折、歴史の波に埋もれてしまったマンショ。
しかしその肖像画が、彼がこの世に確かにいたということ、そして天正遣欧少年使節の正使として華々しい活躍を果たしたことを静かに語ってくれます。

(寄稿)ゆほ

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