中浦ジュリアンとは 優しいけどちょっと頑固な中浦ジュリアン神父

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天正遣欧少年使節の4人の紹介。
最後は副使「中浦ジュリアン」(なかうら-じゅりあん)です。
正使の伊東マンショ千々石ミゲル、同じく副使で語学と交渉術に長けていた原マルチノに比べると、あまり目立たないジュリアン。
イエズス会の記録にも学力は平凡と評価され、特に目立ったことは書かれていません。
しかし、ジュリアンは使節の中で初めて、カトリック教会から「ある物」を与えられました。


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生い立ち

中浦ジュリアン。本名・小佐々甚吾は永禄12年(1569年)頃、肥前国大村領である中浦(現在の長崎県西海市)に生まれました。
父は大村純忠の家臣で、中浦城城主・小佐々甚五郎です。
小佐々氏は当時、西彼杵半島から五島にかけての海洋を支配していた強大な一族でした。

しかし永禄13年(1570年)、父・甚五郎が久津峠の戦いで戦死し、残された母親とジュリアンは大村に移り住むことになります。
12歳の頃に他の使節のメンバー同様、有馬のセミナリヨに1期生として入学。

有馬のセミナリヨ跡

2年後にローマに派遣される使節団の副使に選ばれ、長崎を出航します。

優しいけどちょっと頑固な性格

今に残る史料だけではなかなか性格が浮いてこない4人ですが、実はジュリアンは少しだけ、その性格を垣間見ることができます。その性格がわかるエピソードが2つ。
まずはトスカーナ公国で行われた公妃主催のダンスパーティーでのエピソード。
4人が社交界デビューを果たし、マンショは主催者であるビアンカ公妃のダンスパートナーに選ばれたことは、以前紹介しましたね。
当然、ジュリアンも女性とダンスをしました。しかしジュリアン、緊張で頭が真っ白になっていたのでしょうか。
彼はダンスのパートナーに思わず、老婦人を指名してしまいました。これには会場中が笑いに包まれたとか。
ちょっと緊張しいだったのかもしれませんね。
このことについて、ジュリアンは後日「自分が踊れないために、あえて老婦人をダンスに誘い、この方を笑い者にしてしまったとしたら申し訳ないです…。」と語っています。
ご婦人を心配するジュリアンの優しい性格がわかるコメントです。


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 2つめのエピソードは使節の旅の大本命、ローマ法王グレゴリウス13世との謁見でのこと……ですが、実はジュリアンは公式的に法王と謁見を果たせませんでした。
というのも、謁見の数日前に発熱をし、謁見当日はふらふら状態。医者からも絶対安静と言われてしまいます。
しかしジュリアンは医者の言うことを聞かず「法王様にお会いすれば、きっと治ります!」とラテン語で言い張り、謁見の場に向かうのです。
そして、案の定、途中で具合が悪くなり、一人宿舎に戻ることになります。旅の大本命であるため、どうしても引けない気持ちはよくわかりますが、少し頑固な一面が伺えます。
ちなみにローマ法王はこの話を聞き、公式の謁見の前にジュリアンに会いにきてくれました。

潜伏司祭

天正18年(1590年)に無事に帰国を果たすとジュリアンはノビシアード、コレジオでの勉強期間を経て、イエズス会に入会。
出身校である有明のセミナリヨでマンショと共に講師も務めました。そして、慶長13年(1608年)に遂に司祭に叙階されます。
帰国して18年後、39歳頃のことです。
ミゲルが棄教、マンショが病死していく中、ジュリアンとマルチノだけが司祭として活動を続けます。
しかし慶長19年(1614年)、幕府によってキリシタンの国外追放令が出され、マルチノがマカオに追放されます。
一方、ジュリアンは追放令に従わず、日本に潜伏して布教活動を続ける道を歩むことになります。

最後の天正遣欧少年使節

赴任先であった博多に禁教令が出されると、ジュリアンは長崎に戻りました。
弾圧の嵐が吹き荒れる中、ジュリアンは幕府の目をかいくぐりながら、布教活動を続けます。
活動は必ず夜。百姓の服を着て、信者の家から家を訪ね歩きました。
何度も捕まりそうになりましたが、その度に、信者達に助けられたといいます。
長崎の日本二十六聖人記念館にはジュリアンがローマのマスカレニヤス神父に宛てた直筆の手紙が残されています。
流暢なラテン語で書かれたその手紙には

『決して終わらない迫害の中、私たちには一日も一時も休むことができないくらいです。
ちょうど今も、信者が来て、もっと安全な所に逃げるようにと知らせました。』

と、ジュリアンの置かれている厳しい状況が生々しく書き記されています。
ジュリアンは信者を励ますだけでなく、一度は棄教した人々をキリシタンに立ち返らせることもしました。
ジュリアンが家に訪問すると、信者達は大変喜んだといいます。

そんなジュリアンでしたが、寛永9年(1632年)に捕まってしまいます。
長崎のキリシタン牢に約1年、投獄され、棄教を迫られましたが、ジュリアンが棄教することはありませんでした。
そして寛永10年(1633年)、穴吊りという拷問の末に64歳の生涯に幕を下ろしました。
処刑場に入った時、ジュリアンは役人達に向かってこう叫びました。

「私はローマを見た、中浦ジュリアン神父である。」

平成19年(2007年)、当時のローマ法王ベネディクト16世がジュリアンを福者に列福することを発表しました。


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そして彼の死から375年が経った平成20年(2008年)、ジュリアンはその他187名のキリシタンと共に長崎で福者に列せられました。
ジュリアンは使節の中で、初めて福者の称号を与えられたのです。
最後の使節団として、最後まで頑なに自らの意志を貫いたジュリアン。
最後まで持ち続けたのは、天正遣欧少年使節としての誇りだったのかもしれません。

(寄稿)中みうな

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