千々石直員 天正遣欧使節の千々石ミゲルがキリスト教を辞めた理由?

千々石直員(ちぢわ-なおかず)は、有馬家の最盛期を築いた有馬晴純の3男で1545年生まれです。
兄に有馬義貞、大村純忠がいます。有馬晴信は甥です。
そして、千々石氏の養子となって、千々石直員(千々石淡路守)は、島原西目口の要衝である千々石を領しました。
1563年には、後藤貴明に属して兄・大村純忠と争ってもいます。
1570年には、佐賀の横造城の守将となったようですが、龍造寺隆信に攻められます。
この時、横造城の戦いにて千々石直員は家老・木戸高九郎とともに自刃したようです。


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その後、千々石家は養子の千々石澄員(千々石大和守澄員)が家督を継ぎます。

佐賀城主・龍造寺隆信は、1571年、有馬領の杵島郡を抑え、1572年には藤津郡にも進出し、1576年に藤津郡の深町家が追放されます。
そのため、有馬勢は援軍を出しますが、これも撃退されるなど、有馬家は推定を続けました。
1577年、龍造寺家勢に攻められ釜蓋城の戦いとなります。
援軍の遅れもあり、老臣の木戸万九郎(木戸萬九郎)と共に千々石澄員は自刃しました。(享年25)

なお、先に横造城で命を落とした千々石直員(千々石淡路守)には、1569年に生まれた子である千々石清左衛門(千々石紀員)がいます。
1577年に、釜蓋城が落城した際に、乳母に抱かれて城から逃れたと伝わります。
その後、大村氏を継承していた伯父・大村純忠の三城城に身を寄せました。

千々石直員(ちぢわ-なおかず)は11歳のときである、1580年にポルトガル船の司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマより洗礼を受け、千々石ミゲルの洗礼名を与えられました。
そして、有馬のセミナリヨ(イエズス会の神学校)で神学教育を受けます。


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1582年、日本を訪れたイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ司祭が、有馬晴信・大村純忠らに、カトリック教会の本山であるローマに使節を送ることを提案します。
そこでセミナリヨで学んでいた少年たちに白羽の矢が立ちました。

天正遣欧少年使節

こうして、1582年2月2日、長崎港から旅だったのが、天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)となります。

主席正使・大友宗麟の名代としては、大友宗麟と血縁関係があった伊東義祐の孫である伊東マンショ
正使は大村純忠の名代として千々石ミゲル。
副使は中浦ジュリアン(肥前中浦領主・中浦甚五郎の子)と、原マルティノ大(村領の名士・原中務の子)と、年齢は13~14歳の4名でした。

天正遣欧使節は途中、マカオ、マラッカ、ゴアと経由して、2年6ヶ月後の1584年8月10日にようやく、ポルトガルの首都・リスボンに到着しています。
東洋からの信徒としてスペインではフェリペ2世からも歓迎を受け、イタリア・ローマでは教皇グレゴリウス13世と謁見し、ローマ市民権を与えられています。
ちなみに、ローマ教皇は使節との謁見の際に、滝のように涙を流して感激したと記録がありますが、当時、高齢であり、その約18日後に死去しています。
約2年に渡りヨーロッパにて見聞を広めた4人ですが、いくさきざきで歓迎され、天正遣欧使節を記事にした紙面も、現在に残っているだけでも70記事もあります。
そして、1586年4月13日、リスボンから日本に向けて出港し帰国の途につきました。
1590年7月21日と、約4年後に長崎に到着した訳ですが、この帰国までの8年5ヶ月の間に、大村純忠、大友宗麟は既に亡くなっており、九州も豊臣秀吉が平定し、3年前にバテレン追放令を出すなど、すっかり情勢は変わっていました。


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しかし、1591年3月3日、4人は京都聚楽第で豊臣秀吉と謁見し、報告しています。
この時、千々石ミゲルは22歳の若者となっており、彼らを気に入った豊臣秀吉は、豊臣家への仕官を勧めます。
しかし、伊東マンショ・千々石ミゲルら4名は司祭になるべくく天草の修練院に入りました。

なお、千々石ミゲルは、ヨーロッパで学んだ際に、キリスト教徒が黒人などを奴隷として扱っているのも間に当たりにしており、次第に熱意を失ったようで、教会と距離を置くようになります。
イエズス会は、異教徒(日本では仏教徒)を異端だとして仏像を破壊するような事も行っていましたので、恐らく「国自体が乗っ取られて、日本人が奴隷のようになる」と言う危機感を抱くようになったと推測できます。
戦国時代から江戸時代に入ってもキリシタンは増え続けますが、大阪城豊臣秀頼が保護する姿勢を示したこともあり、のち徳川家も1614年にキリスト教の追放令を出し、宗教を持ち込まないオランダだけと貿易をするのです。

このように、千々石ミゲルは、1601年には「日本で異国人がキリスト教布教をするのは、日本侵略が目的だ」としてキリスト教を棄教したため、イエズス会から除名されました。
洗礼名を捨てると千々石清左衛門と名を改め、大村藩主・大村喜前より600石で召し抱えられています。

なお、修道士でありながら棄教したため、有馬晴信の遺臣などのキリシタン信者から、命を狙われることもあったと言います。
しかし、千々石清左衛門は仏教を信じるようになった訳でもなく「神」そのものを信じなくなったようです。
晩年の千々石清左衛門については良く分かっていませんが、1632年12月14日に63歳で死去しました。


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ちなみに、伊東マンショは追放されたのち長崎で1612年に病死。
1614年、江戸幕府のキリシタン追放令を受けて、原マルティノはイエズス会の命にてマカオに移り住み、現地で1629年に死去しました。
増々キリスト教は弾圧されるなか、中浦ジュリアンは20年以上、潜伏活動をしましたが、1632年、小倉で捕縛されます。
棄教を迫る拷問を約1年受けた末に、長崎で穴吊るしの刑に処せられ殉教しました。享年65。

天正遣欧少年使節

上記写真は長崎空港の橋のたもとにある天正遣欧少年使節の像です。

なお、この天正少年使節が戦国時代に派遣されていたと日本で知られるようになるのは、明治6年に岩倉使節団の岩倉具視が、ベニスにて支倉常長や天正遣欧少年使節の文書を発見してからです。
約300年ものあいだ、歴史の中に封印されていたのでした。

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